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【春日虎綱】
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武田家の滅亡前夜に世を去る
春日虎綱の諫言が取り上げられないのは、勝頼一人の問題とも言えません。
信玄時代を活きた同輩たちが次々に世を去ってゆく中、虎綱は老臣の代表格。
彼のような老臣に対し、武田一門の武田信豊、穴山信君、そして勝頼譜代家臣たちは不満を感じていたとされます。
特に虎綱はしばしば長坂光堅釣閑斎と対立していたとも伝わる。
しかし天正6年(1578年)、虎綱が目を光らせていた越後の上杉謙信が急死します。
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すると上杉家の家督の後継をめぐって、景勝と景虎が争う【御館の乱】が勃発。
果たして行く末はどうなるのか。
景勝と締結する【甲越同盟】に関わる書状に虎綱はしばしば登場します。
しかしその終結を見届けることはありませんでした。
天正6年5月7日(1578年6月12日)に虎綱は病没してしまうのです。
一族に訪れた非情な運命
春日虎綱の一族は、その後、非業の運命をたどります。
次男の信達が海津城代を継ぐも、天正10年(1582年)に武田家が滅亡。
森長可の支配を受け、程なくして起きた【本能寺の変】の後は森長可に反し、上杉景勝の支配下に入ります。
武田の滅亡後、信濃は【天正壬午の乱】という騒乱状態に陥りました。
この最中、信達は、真田昌幸や北条氏直と通じたとして、景勝に成敗されてしまいます。
【天正壬午の乱】は、真田昌幸のように器用に泳ぎ回れた者ばかりではなく、滅亡へ追い込まれてしまう者たちもいたのです。
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そして森長可の弟・森忠政は執念深い人物でした。
慶長5年(1600年)、初代川中島藩主として信濃に入った忠政は、兄を妨害した高坂一族を探し出し、磔刑にしてしまったのです。
ただし、このしつこい追及を免れ、子孫を名乗る人々は残されています。
★
ゲームでも、武将隊でも、美男として実装される「高坂弾正」。
信玄の目に留まり武田家に仕え、あの上杉謙信に睨みを利かせる名将となるとは、なんと劇的な生き方でしょうか。
美丈夫で、知勇兼備で、難しい撤退戦をこなす、そんな絵になる武将が実在したのです。
春日虎綱こそ後世に語り継ぐにふさわしい人物といえましょう。
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文:小檜山青
※著者の関連noteはこちらから!(→link)
【参考文献】
『武田氏家臣団人名事典』(→amazon)
高野賢彦『甲州・武田一族衰亡史』(→amazon)
他