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【魚津城の戦い】
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景勝は、自身が動けない代わりに能登(現・石川県)などから援軍を向かわせました。
魚津城の面々はよく持ちこたえ、5月初旬にいよいよ景勝自身が援軍に向かいます。
そして東側にある天神山城で機を窺いました。
しかし、ここで再度
【信濃と上野の織田軍が、越後侵攻に向かっている】
という知らせを受け、天正十年(1582年)5月27日、断腸の思いで引き返すことを決めます。
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降伏してでも生き残ってほしい
景勝は魚津城へ「降伏して良い」と書き送りました。
また、謙信の代からの付き合いである佐竹義重へは
「日本全土を手に入れようとしている相手に対し、越後一国で立ち向かって討ち死にできるなんて、私は果報者です」(意訳)
という手紙を出しています。
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つまり、景勝は「自分が討ち死にするのは構わないが、魚津城の家臣たちには生き残ってほしい」と思っていたことになるわけです。
謙信があまりにも偉大すぎて「景勝(笑)」のような扱いをされることもありますが、この誠実さと清々しさが景勝最大の美点だったでしょう。
コンビを組んでいる直江兼続とは少し違いますね。
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この二通の手紙を知ると、彼が関ヶ原後に120万石から30万石へ大減封となっても「召し放ち(リストラ)」をしなかった・できなかった理由もうなずけます。
魚津城の諸将も、景勝の気持ちはよくわかっていました。
そして、それ故に降伏できませんでした。
陥落! そして本能寺……
開戦からちょうど3ヶ月経った今日この日。
12人(あるいは13人)の上杉軍守将は皆揃って自刃し、織田軍が魚津城を攻め落とします。
この自刃のやり方がまた壮絶なものだったのですが、R18Gになるかもしれないので割愛にご理解を。ご興味のある向きは各自お調べください。
勝利に沸いていた織田軍は、しかしここで最悪の知らせを受け取ることになります。
本能寺の変です。
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慌てふためき、我先にと魚津城から退却する織田軍。
その後、上杉軍は、魚津城や周辺地域を奪還しました。このときの景勝以下の気持ちはいかばかりか……。
まぁ、清州会議で織田家が落ち着くと、今度は佐々成政によって攻め取られてしまうのですが。
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童門冬二先生の『小説 直江兼続』(→amazon)の冒頭で、魚津城の戦いをめぐる景勝と兼続のやりとりが出てくるので、物語として楽しみたい方にはおすすめです。
大河ドラマ『天地人』……に触れるのはヤメておきましょう。
にしても、そろそろ景勝主役のドラマや映画が出てきてもいいんじゃないかと思うのです。
こうした場面は景勝という人間の内面が一番表に出ているところです。映像化プリーズ!
★
本能寺の変が起きた後は、他に数多のビッグイベントが連続するため、【魚津城の戦い】は忘れ去られがちです。
しかし、凄まじいエピソードもあり、もっとフィクションでも取り上げて欲しいんですけどね……。
現在、魚津城阯は小学校になっています。
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長月 七紀・記
【参考】
国史大辞典
谷口克広『織田信長家臣人名辞典(吉川弘文館)』(→amazon)
峰岸純夫/片桐昭彦『戦国武将合戦事典(吉川弘文館)』(→amazon)
魚津城の戦い/wikipedia