天海/wikipediaより引用

徳川家

南光坊天海(家康の側近僧侶)の正体は「光秀」だと!? 諸説にツッコミ

寛永二十年(1643年)10月2日、徳川家康の参謀役だった僧侶・天海が亡くなりました。

前半生に謎多い人物で、京都の南光坊で色々とやっていたので南光坊天海とも呼ばれます。

この人といえば、やはりその正体について迫らないわけには参りません。

一番有名なのは「明智光秀が(物理的に)化けてたんじゃね?」という説ですね。

生年不明な光秀ですが、おそらく信長より歳上であったと考えると、天海の享年は最低でも110歳オーバーとなります。

ハハハハハッ。

もう、ありえないですよね。

しかし、同説がそこそこ浸透したのにはそれなりの根拠があるわけで。

今回は、その根拠を眺めつつ、一人ツッコミ大会をしたいと思います。

 

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日光東照宮の桔梗紋

日光東照宮に桔梗紋が使われているから、という発想からのものですね。

確かに光秀の家紋は”水色桔梗”です。

しかし、桔梗の家紋は他の人も使っています。

さも光秀オリジナルのようにいわれるのは、当時ほぼ黒一色の家紋しか存在しない中で、光秀の実家であるといわれている土岐氏他ごく一部だけが水色という有彩色を使っていたからです。

桔梗の紋自体は清和源氏系の家が多用しています。

一応、源氏だということになっている家康が使ったり、そのお墓である東照宮にあるのはおかしなことではありません。

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首実検が甘い

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そのため光秀の首は夏の暑さでかなり傷んでしまい、きちんとした本人確認ができていないのでは?とも言われています。

つまり、秀吉の前に出てきたのは別人(影武者)で、本人は生きており、頭を丸めて隠遁していたのでは?という説ですね。

源義経も似たような話がありますね。

それで義経=チンギス・ハーン説があるんですが、両者共に眉唾でしょう。

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光秀の首を介錯したのは三沢秀次溝尾茂朝溝尾庄兵衛)と言われているのですが、信憑性については判断しにくいところでもありますね。

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まぁ、これを言い出したら、織田信長なんて遺体が発見されませんからね。

それに敗軍の将やトラブル時における追手の厳しさはハンパじゃありません。

関ヶ原後の石田三成にしても、本能寺の変後の穴山梅雪にしても、結局、捕まったり殺されたりしております。

稀代の謀反人に対して監視の目が緩むことはないでしょう。

では、他の3説も見てみましょう。
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