元和二年(1616年)4月17日は、最後の三英傑・徳川家康が亡くなった日です。
家康の死因というと、一昔前までは「鯛の天ぷらを食いすぎw」という扱いでしたが、最近では違う説の方が有力になってきています。
というのも、家康が鯛の天ぷらを食べたのは、同年1月のこと。
直接の死因というのならば、4月中旬に亡くなるというのは、いくらなんでも遅すぎですよね。
では一体、死因はなんだったのか?
晩年の頃のお話と合わせて振り返ってみましょう。
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塩分過多になりやすい食事環境だった
今のところ可能性が高そうなのは、胃がん説です。
質素倹約を自ら実践していた家康にしては意外な気もしますが、胃がんリスクの一つに「塩分の高い食事」というものがあります。
かつての日本人の食事は「玄米+漬け物+味噌汁+焼き魚」が基本。
というかこれが全部そろえば贅沢なもので、だいたいは「玄米+漬け物・味噌汁・焼き魚のどれか」という感じでした。
つまり炭水化物+塩分なわけです。
食事に占める塩分の割合が高くて当然ですね。
他の戦国武将でも胃がんや食道がん、高血圧で亡くなったと言われている人が何人もいますし、この辺の病気はある意味職業病のようなものだったかもしれません。
庶民は食べ過ぎになるほど食べられなかったでしょうし。
まあ、世界には「食事がダメすぎて士気が上がらず戦争に負けた」とか「食事にこだわりすぎて戦意がなくなって(ry」なんて話もあるので、それに比べればマシ……ですかね?
生涯現役~30才以上離れた側室も
さて、家康が亡くなるもう少し前のことにも着目してみましょうか。
といっても亡くなった年が年のため、戻りすぎると大坂の役やら豊臣家とのアレコレやら、全く楽しくない話になってしまいます。
今回はプライベートの方を見ていきましょう。
前にも家康の女性関係の話をしたことがありますが、家康はそっちのほうでも生涯現役でした。
後に尾張家の初代となった義直の生母・お亀の方など、30歳以上も離れた女性を多く側室に迎えています。
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と言っても、色ボケしていたわけではなく、自分が死んだ後のこともきっちり考えていました。
例えば阿茶の局という側室については、その才女ぶりを惜しんで「ワシが死んだ後も秀忠たちを頼む」と言い残し、すぐに出家することを許しませんでした。
阿茶の局は律儀に従い、徳川秀忠が亡くなるまで江戸城に留まり、和子が入内するときもお供を務めたといいます。
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身内の秩序を固め、長い平和が続く
また、忠輝や家光の父親嫌いについて対処しきれなかったせいか。
幼い下の息子たちや自分の親族たちに対しては、しっかりと序列を作り、身内からの反乱を防ぎました。
後世から見ると当たり前のことなのですが、他国の歴史と比べると結構凄いかもしれません。
世界史にお詳しい方ならご存知のとおり、ほとんどの国の戦争は親戚同士のいさかいだったり「おまえんちの王家はうちの親戚だから、俺にも継承権あるよね! 文句あるなら戦争な!!」というきっかけで起きますから……。
家康の評価が海外で高いのも、この辺のことが影響しているのでしょう。
他にも若い頃から得意だった水泳を続けていたり、自分で薬を調合したり、年をとっても頭も体も良く使ったからこそ、17世紀初頭でありながら歴代将軍で2番目という長寿を得ることができたのでしょう。
キリスト教については禁じましたが、眼鏡や鉛筆といったヨーロッパの文物には興味を示していたそうですしね。
この辺の下準備があったからこそ、江戸時代が260年も続いたんですな。
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長月 七紀・記
【参考】
国史大辞典
煎本増夫『徳川家康家臣団の事典』(→amazon)
徳川家康/Wikipedia