大須賀康高

大須賀康高/wikipediaより引用

徳川家

徳川二十八神将の大須賀康高が「高天神城」で武田軍相手に大奮戦!

戦国最強の武将と囁かれる本多忠勝をはじめ、井伊直政榊原康政酒井忠次の四名は【徳川四天王】と呼ばれたりします。

文字通り、徳川家康の躍進を支えたベスト4というワケですが、徳川には他にも「十六将」とか「二十将」あるいは「二十四将」から「二十八将」なんて顕彰まであったりします。

今回注目したいのは、ベスト16には入れない、されどベスト20以降なら確実に名を連ねる――大須賀康高です。

この大須賀さん、知名度は低いながら、精強な武田軍を相手に奮戦を続け、その功績はベスト16にも負けないものと言えます。

天正17年(1589年)6月23日が命日。

本稿でその生涯を振り返ってみましょう。

 

四天王の一人・榊原康政は娘婿

大須賀康高の生まれは大永七年(1527年)。

徳川四天王筆頭の酒井忠次とは同い年で、徳川家康から見ると15歳の年長でした。

※以下は徳川家康の考察記事となります

徳川家康
徳川家康はなぜ天下人になれたのか?人質時代から荒波に揉まれた生涯75年

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地元は三河額田郡洞村(愛知県岡崎市)で、前半生においては松平氏の家臣である酒井忠尚に仕えていました。

つまり家康からみると陪臣(家臣の家臣)になりますね。

しかし永禄六年(1563年)に、その酒井忠尚が家康に背いたため、康高は忠尚から離反。

娘婿だった榊原康政とともに、直接、家康の家臣となりました。

これまた四天王の一人・榊原康政が義理の息子だったんですね。

榊原康政
徳川四天王・榊原康政にはどんな功績がある?家康と歩んだ生涯59年

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さすが徳川二十神将の一人に数えられるだけあって地縁・血縁はしっかりしている印象ですね。

実際、徳川家の主だった合戦に大体参加しています。

一覧にするとこんな感じです。

ご覧の通り、名だたる戦いばかりですね。

上記の戦で目立ったエピソードはありませんが、康高には高天神城周辺での活躍が今に伝わっています。

天正二年(1574年)から始まった、いわゆる【第一次高天神城の戦い】です。

 

高天神城の戦い

高天神城は武田・徳川の境目にあり、絶えず両者の間で激しい攻防線が繰り広げられていました。

「信玄が落とせなかった城」としても知られていますよね。

当初、大須賀康高は城主の小笠原信興らと共に、この城を守っていて、このときは家康からの援軍が望めませんでした。

というのも、天正二年はじめに上杉輝虎(上杉謙信)から徳川氏へ

「ウチは西上野から武田領を攻めるんで、織田家や徳川家もよろしく」(超訳)

という連絡が来ており、家康は上杉軍の動きを意識して駿河へ攻め込んでいました。

しかし、武田勝頼がその裏を突くような形で1574年(天正2年)5月、徳川領である遠江へ侵攻してきたのです。

上杉謙信
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武田勝頼
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前述の通り、高天神城は”かつて信玄が攻め入って攻略しきれなかった城”でもあります。

代替わりしたばかりの勝頼にとっては「ここを取れば士気が上がるし、自分の能力も証明できる」というところ。

もちろん康高らも譲るわけにはいきませんし、以下の復元図をご覧いただいてご想像通り、この城も非常に堅強な城として知られていました。

高天神城図photo by お城野郎!

援軍が来ない籠城戦は、希望のない戦いであり、通常ならすぐに落ちてしまう場面です。

しかし彼等は粘ります。

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