鳥居元忠

鳥居元忠(左)と徳川家康/wikipediaより引用

徳川家

関ヶ原の西軍を足止めして散った鳥居元忠~徳川の陰に忠臣の犠牲あり

慶長5年(1600年)8月1日は徳川家の忠臣として有名な鳥居元忠が亡くなった日です。

この方については、まず亡くなった年月についてご注目ください。

慶長5年(1600年)と言えば……?

そうです、関ヶ原の戦いがあった年ですね。

慶長5年の9月15日に徳川家康の東軍と、石田三成の西軍がぶつかったワケですが、鳥居元忠はその直前、8月に亡くなっている。

忠臣という割に、大事な合戦で役に立ってないじゃん――と考えるのは早計でして、実はこの元忠、少数の兵で京都を守り、討死しながら西軍の進軍を一時的に足止めしていたのです。

ある意味、東軍最大の功労者。

詳細は後述するとして、今回は鳥居元忠の生涯を振り返ってみましょう。

 

家康の人質時代から仕え始める

鳥居元忠は天文八年(1539年)生まれ。

家康が天文十一年(1543年)ですので、元忠のほうが少しだけ年上ですね。

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主君と歳の近い、譜代の家臣というポジションですので、二人の結び付きは幼い頃から強く、家康が人質生活を送るころから仕え始めました。元忠13歳のときのことです。

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鳥居氏の先祖は「源為義(頼朝祖父)の娘」で、源頼朝から数ヶ所の地頭職を与えられたとか。

血筋というにはちょっと話がアヤフヤですが、いずれにせよ室町時代の鳥居氏は懐に比較的余裕があったようで、元忠の父である鳥居忠吉は人質時代の家康に衣服や食料を送って支援していたようです。

そして後に家康が岡崎へ帰ったとき、忠吉は蔵を開いてこう告げたとか。

「この通り充分な兵糧を用意していますので、明日、戦が始まったとしても大丈夫です」

戦費として蓄えていた銭の積み方については、

「横に積むと崩れやすいので、縦に積んでいます」

と言っていたそうで。

家康はこれに感心し、自分が銭を積ませるときもそのようにしたといわれています。

父のそうした姿からも、利発で忠義に厚い元忠像が浮かんできますね。

 

姉川の戦いで足を撃たれ歩行障害に

鳥居元忠と家康の人質生活に大きな転機が訪れたのは、永禄3年(1560年)5月19日のことです。

この日【桶狭間の戦い】で今川義元が討死。

家康が岡崎へ戻って今川から離反すると、その後、徳川家は織田信長と同盟を結び、怒涛の日々が始まります。

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鳥居元忠も、武将として各地の戦に加わりました。

一つ注目すると元亀三年(1572年)【姉川の戦い】でしょうか。

織田徳川軍が浅井朝倉軍と近江でぶつかったこの戦い、当然ながら元忠も参加していましたが、戦の直前に父が亡くなり、家督を継いだばかりだったそうです。

父の忠吉が死んだとき、長兄の鳥居忠宗もすでに死亡(戦死)していました。

次兄は出家していましたので、三男の元忠が正式に跡継ぎに。

といっても、長兄の忠宗が亡くなったのは天文十六年(1547年)のことでしたので、かなり以前から鳥居家としても元忠の家督準備を進めていたことでしょう。

以降、徳川家臣団の一員として、さらに重い役割を果たすことになる元忠。

本多忠勝井伊直政とはタイプが異なり、”最前線で華々しく戦う”というより、サポートや側面での活躍が目立ちます。

例えば元亀三年(1572年)12月【三方ヶ原の戦い】では、局地戦の一つである【諏訪原城合戦】で斥候(せっこう)を務めています。

斥候とは、敵陣に潜入する偵察部隊ですね。

相手は武田軍ですから、考えるだけでも気が重いな……と思ったら、実際、運悪く武田軍に見つかってしまい、足を鉄砲で撃たれた元忠は、以降、その傷が原因で歩行に障害を抱えたとされます。

足が完全でないと、戦うこともままならず、戦国武将としては致命的とも思えるかもしれません。

しかし元忠のやる気と忠義は1ミリも削がれず、その後も、変わらず徳川家に仕えています。

 

官位や名誉に興味ナシ

天正三年(1575年)5月に【長篠の戦い】が勃発。

武田軍と正面からぶつかったこの大きな戦いで、鳥居元忠は、石川数正と共に馬防柵を設置しました。

織田信長も、武田軍の騎馬については「強い」と警戒していて、柵や堀を作らせるなどして、事前に自軍を城塞化していたのです。

つまり馬防柵も勝因の一つとなりましたので、忠勝や直政のように派手なエピソードではなくても、その功績は少なからぬものといえるでしょう。

以降も元忠は、徳川軍の主要な合戦で戦い続けます。

ざっと記述しますと……。

主要な戦にあらかた参じている一方、官位や名誉には興味がなかったようで、たびたび断ったという話が伝わってきます。

具体的な逸話を2つほど見てみましょう。

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