鳥居元忠

鳥居元忠/wikipediaより引用

徳川家

鳥居元忠の生涯|徳川の天下のため 西軍を足止めして伏見に散った生き様

2025/07/30

慶長5年(1600年)8月1日は徳川家の忠臣として有名な鳥居元忠が亡くなった日。

まず注目したいのが亡くなった“年月”です。

慶長5年(1600年)8月と言えば……そう、関ヶ原の戦いがあった年ですね。

9月15日に徳川家康の東軍と、石田三成の西軍がぶつかったワケですが、鳥居元忠はその直前の8月に亡くなっています。

忠臣という割に、大事な合戦で役に立ってないじゃん――と考えるのは早計。

実はこの元忠、少数の兵で京都を守り、城を枕に討死しながら西軍の進軍を足止めしていたのです。

鳥居元忠/wikipediaより引用

ある意味、東軍最大の功労者であり、詳細は後述するとして、今回は鳥居元忠の生涯を振り返ってみましょう。

 

家康の人質時代から仕え始める

鳥居元忠は天文八年(1539年)生まれ。

徳川家康が天文十一年(1543年)ですので、元忠のほうが少しだけ年上ですね。

主君と歳の近い、譜代の家臣というポジションですので、二人の結び付きは幼い頃から強く、家康が人質生活を送るころから仕え始めました。元忠13歳のときのことです。

竹千代像(少年期の徳川家康)

鳥居氏の先祖は「源為義(頼朝祖父)の娘」で、源頼朝から数ヶ所の地頭職を与えられたとか。

血筋というにはちょっと話がアヤフヤですが、いずれにせよ室町時代の鳥居氏は懐に比較的余裕があったようで、元忠の父である鳥居忠吉は人質時代の家康に衣服や食料を送って支援していたようです。

そして後に家康が岡崎へ帰ったとき、忠吉は蔵を開いてこう告げたとか。

「この通り充分な兵糧を用意していますので、明日、戦が始まったとしても大丈夫です」

戦費として蓄えていた銭の積み方については、

「横に積むと崩れやすいので、縦に積んでいます」

と言っていたそうで。

家康はこれに感心し、自分が銭を積ませるときもそのようにしたといわれています。

父のそうした姿からも、利発で忠義に厚い元忠像が浮かんできますね。

 


姉川の戦いで足を撃たれ歩行障害に

鳥居元忠と家康の人質生活に大きな転機が訪れたのは、永禄3年(1560年)5月19日のことです。

この日【桶狭間の戦い】で今川義元が討死。

家康が岡崎へ戻って今川から離反すると、その後、徳川家は織田信長と同盟を結び、怒涛の日々が始まります。

織田信長/wikipediaより引用

鳥居元忠も、武将として各地の戦に加わりました。

一つ注目すると元亀三年(1572年)【姉川の戦い】でしょうか。

織田徳川軍が浅井朝倉軍と近江でぶつかったこの戦い、当然ながら元忠も参加していましたが、戦の直前に父が亡くなり、家督を継いだばかりだったそうです。

父の忠吉が死んだとき、長兄の鳥居忠宗もすでに死亡(戦死)していました。

次兄は出家していましたので、三男の元忠が正式に跡継ぎに。

といっても、長兄の忠宗が亡くなったのは天文十六年(1547年)のことでしたので、かなり以前から鳥居家としても元忠の家督準備を進めていたことでしょう。

以降、徳川家臣団の一員として、さらに重い役割を果たすことになる元忠。

本多忠勝や井伊直政などの戦闘タイプとは異なり、”最前線で華々しく戦う”というより、サポートや側面での活躍が目立ちます。

本多忠勝/wikipediaより引用

例えば元亀三年(1572年)12月【三方ヶ原の戦い】では、局地戦の一つである【諏訪原城合戦】で斥候(せっこう)を務めています。

斥候とは、敵陣に潜入する偵察部隊ですね。

相手は武田軍ですから、考えるだけでも気が重いな……と思ったら、実際、運悪く武田軍に見つかってしまい、足を鉄砲で撃たれた元忠は、以降、その傷が原因で歩行に障害を抱えたとされます。

足が完全でないと、戦うこともままならず、戦国武将としては致命的とも思えるかもしれません。

しかし元忠のやる気と忠義は1ミリも削がれず、その後も、変わらず徳川家に仕えています。

 

官位や名誉に興味ナシ

天正三年(1575年)5月に【長篠の戦い】が勃発。

武田軍と正面からぶつかったこの大きな戦いで、鳥居元忠は、石川数正と共に馬防柵を設置しました。

長篠合戦図屏風より/wikipediaより引用

織田信長も、武田軍の騎馬については「強い」と警戒していて、柵や堀を作らせるなどして、事前に自軍を城塞化していたのです。

つまり馬防柵も勝因の一つとなりましたので、忠勝や直政のように派手なエピソードではなくても、その功績は少なからぬものといえるでしょう。

以降も元忠は、徳川軍の主要な合戦で戦い続けます。

ざっと記述しますと……。

主要な戦にあらかた参じている一方、官位や名誉には興味がなかったようで、たびたび断ったという話が伝わってきます。

具体的な逸話を2つほど見てみましょう。

 

秀吉からの誘いを一刀両断

一つは、天正十四年(1586年)のこと。

豊臣秀吉のはからいにより、徳川家臣の数人に官位が与えられることになると、元忠にも声がかかりますが、次のように固辞しています。

「私は不才で三河の粗忽者なので、殿下の御前に出仕できるような者ではありません」

そんな元忠を気に入ったのか、あるいは腹が立ったのか。

秀吉は、元忠の嫡子である鳥居忠政を滝川雄利(かずとし)の養子に入れるよう求めたことがあります。

豊臣秀吉/wikipediaより引用

雄利は、織田家の重臣として知られる滝川一益の養子に入っていて、秀吉の近臣になっていました。

つまり秀吉は「お前の息子を俺に差し出せ」と言ったも同然。

そもそも「嫡子を他家の養子に入れろ」というのが、御家騒動を起こしかねない無茶振りであり、当然、元忠としてもキッパリ断ります。

「雄利殿の息女と倅を結婚させる、というお話ならばお受けします。我が家は徳川譜代の者ですので、子々孫々に至るまで他家に仕えさせる事は考えておりません」

秀吉相手に、なかなかの切り捨てぶりですね。

本能寺の変後の豊臣秀吉は、他家の懐柔や勢力削減のため、あちこちの大名の有力家臣にこういった話を持ちかけていますので、もはや呆れていたのかもしれません。

もう一つのエピソードは、小田原征伐の後、秀吉に従って東北へ向かっていたときのことです。

秀吉が小田原での戦功を称え、元忠へ感状を与えようとすると、

「私は豊臣家の家臣ではありませんので、殿下から感状をいただいて他家の方に誇るつもりもありません」

と、やはり固辞したそうです。

清々しいまでの断りっぷり……というか、感状ぐらい貰ったらいいじゃん……と少しだけ秀吉が可哀相になってきます。

まぁ、元忠と同じようなポジションにいた石川数正が、徳川から豊臣へ出奔したケースを考えると、そうでもないですかね。

石川数正/wikipediaより引用

一方、そんな元忠ですから、家康からの評価は高く。

徳川が関東に移封されると、下総・矢作(元・千葉県香取市矢作)に四万石を与えられています。

常陸の佐竹氏、さらには北の伊達氏などに備えられる位置ですね。

その北、東北の玄関口である会津には、秀吉によって移封された蒲生氏郷がいたため、元忠は二番手あるいは三番手の抑えというところでしょうか。

そして、慶長3年(1598年)8月に豊臣秀吉が亡くなり、それから2年が過ぎると、いよいよ元忠、生涯最大の見せ場がやって参ります。

関ヶ原の戦いです。

 


家康と酒を酌み交わし今生の別れ

関ヶ原の戦いがなぜ鳥居元忠の見せ場なのか?

正確に言えば、その前哨戦となる【伏見城の戦い】がなぜ起きたのか?

関ヶ原の戦いが起きる前の慶長5年(1600年)7月、会津の大名・上杉景勝に謀反を起こす疑いがあるとして、家康は大軍を率いて出発しました。

上杉景勝/wikipediaより引用

とはいえ家康がそうして上方を離れ、東北に向かえば、三成が何かしらの軍事的行動に出る可能性が高まります。

なんせ会津は、上方から相当遠い。

徳川軍が呑気に東へ向かえば、西軍に背後を突かれるおそれもありました。

では、それを防ぐためにはどうするか?

途中途中の城に信頼できる家臣を残しておくことが一番であり、伏見城に選ばれたのが元忠だったのです。

元忠が託されたのは、敵軍を喰い止めるための防御であり、場合によっては大軍に囲まれ、非常にリスキーな役割です。

しかし元忠であれば、絶対に寝返ったりし、簡単に屈服もしない。

実戦経験も非常に豊富でうってつけの役割ですが、家康の大軍が東へ移動した瞬間、伏見城は最前線に立つ危険な拠点となり、攻められれば討死必至の場所でした。

いわば本気の死の覚悟――。

いくら主君と家臣とはいえ、幼少期からの幼馴染を見捨てなければならないというのは、家康も気が進まなかったでしょう。

その証拠……とまでは断言できませんが、家康は、大坂を出立した6月16日に伏見城へ宿泊し、元忠と酒を酌み交わしたと言います。

今生の別れだったのでしょう。

その後、主君を見送った元忠は、籠城戦に備えて様々な準備を始めます。

用意できた兵数は1800人程度でした。

 

4万の大軍相手に徹底抗戦!

慶長5年(1600年)7月18日、西軍がついに伏見城にさしかかりました。

三成のほかに宇喜多秀家や小早川秀秋、島津義弘など、一説に4万もの大軍。

万に一つの勝ち目もありませんが、三成としても、できるだけ兵の消耗は避けたいところですので、最初は降伏勧告の使者を出します。

石田三成/wikipediaより引用

しかし、とうに覚悟を決めていた鳥居元忠は、使者に対して力強く主張。

「我らがこの城を守っているのは主命によるもの。主君の命なくして明け渡すことなどできるはずもない!」

そして使者を斬って遺体を送り返し、徹底抗戦の態度を崩しませんでした。

伏見城に残った家臣や兵たちも、元忠に応えて奮戦をし、その後なんと13日間も粘るのですが、やはり多勢に無勢。

徐々に押され、最後は城内でもかなりの激戦になりました。

もちろん元忠も自ら戦っています。

そして8月1日、鈴木重朝(雑賀孫市)と一騎討ちを演じて討死にしたと言います(※元忠が自害して重朝が介錯したとも)。

享年62、まさに「城を枕」にした最期でした。

元忠の首は敗軍の将として京橋口に晒され、後に親交のあった商人が引き取り、葬られています。

一部始終を聞いた家康は、その忠義を称え「皆の記憶に残そう」と考えました。

そこで、最後の激戦の地となった伏見城の畳を江戸城に運ばせ、伏見櫓の天井に備え付けさせたといいます。

江戸城はたびたび火災に見舞われているため、伏見櫓も改修されていますが、この血染めの畳は幕末まであったようです。

そして明治維新で江戸城が新政府に明け渡された後、この畳は鳥居家に引き渡されました。

子孫の人々は、元忠を祭神とする精忠神社の境内に「畳塚」を築いて埋納したといいます。

また、伏見城の床板は供養のために養源院(京都市)や興聖寺(宇治市)などの天井に用いられ、現在も「血天井」(養源院→link)として知られています。

養源院公式サイトより引用(→link

こちらをご覧になり、元忠の名や伏見城の戦いのことを知った方も多いのではないでしょうか。

最後に、武士の心意気がうかがえる、元忠の息子たちの話を二つ見たいと思います。

 


元忠公の鎧をお返ししたい

まずは嫡子の鳥居忠政。

彼は伏見城の戦いの後、父を討ち取った鈴木重朝から連絡を受けます。

鈴木重朝は紀伊の雑賀党当主でした。

”雑賀孫市”の名で知られる鈴木重秀の息子とされていますが、養子説や他人説もあり、血筋は不明です。

なかなかこざっぱりとした人物だったらしく、元忠所用の鎧「糸素縣縅二枚胴具足」を後日、息子である忠政に返そうと打診してきたのです。

忠政は深く感謝した後、逆にこの具足を重朝に譲ったとか。

糸素縣縅二枚胴具足はその後も長く鈴木家に伝えられ、2003年に鈴木家から大阪城天守閣に寄贈されています。

日経電子版のニュース記事が詳しいので、興味のある方はこちらを読んでみるのも一興かと。

◆敵将への敬意伝え400年 徳川の忠臣の鎧、大阪城に展示(時の回廊)(→link

大阪城天守閣での公開は不定期とのことですが、大河ドラマ『どうする家康』が始まれば長く展示されるかもしれませんね。

一応、大阪城天守閣のサイトも記載しておきますので、時間があるときにチェックしてみてください。

◆大阪城天守閣(→link

さらに次男の鳥居成次については、次のような話が残されています。

関ヶ原の戦い後、捕えられた石田三成に関して、家康は成次に

「三成はお前の父の仇なのだから、憤りをぶつけてもかまわない」

と言ったそうです。

しかし、成次は三成の衣服を整えるなどしてもてなし、恨みを見せず、家康にはこう伝えたと言います。

「確かに三成は父の敵です。しかし父は元から家康様のために命を捧げていたのですから、三成のせいではなく、私的な恨みはありません」

二つとも清々しい逸話で、父の薫陶がうかがえますね。

凄惨な逸話でありながら、血天井を見学に行く人々が絶えないのは、元忠の忠義がこの清々しさに通じるからでしょうか。

📚 戦国時代|武将・合戦・FAQをまとめた総合ガイド


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【参考】
国史大辞典
煎本増夫『徳川家康家臣団の辞典』(→amazon
笠谷和比古『関ヶ原合戦と大坂の陣』(→amazon
戦国合戦史研究会『戦国合戦大事典 京都府・兵庫県・岡山県』(→amazon

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長月七紀

2013年から歴史ライターとして活動中。 好きな時代は平安~江戸。 「とりあえずざっくりから始めよう」がモットーのゆるライターです。 武将ジャパンでは『その日、歴史が動いた』『日本史オモシロ参考書』『信長公記』などを担当。 最近は「地味な歴史人ほど現代人の参考になるのでは?」と思いながらネタを発掘しています。

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