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【酒井忠次】
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武田家に皮肉たっぷりの返歌
三方ヶ原の戦いの翌年正月、忠次が別の点で機転を利かせた逸話も伝わっています。
武田家から
「松枯れで 竹類(たけたぐい)なき 明日かな」
というイヤミったらしい句が送られてきたときのことです。
それぞれ
松=松平
竹=武田
と表していることが明らかなこの句に、家康も家臣も大激怒。
そこで忠次は、これにちょっとした落書き?を施しました。
漢字に直すと
「松枯れで 武田首なき 明日かな」
というように書き換え、イヤミ返しをしたのです。
「松は枯れないし、武田は首がなくなる」とは、これまたドギツイ言い返しようですね。
ついでに門松の竹を、首を切るかのように斜めに切り落としたとか。
例によって真贋の程ははっきりしないものの、文武両道という言葉そのままの人だったのでしょう。
長篠では別働隊を率いて
三河でも古参の武士――というと、いかにも渋くて強面な姿を想像してしまうかもしれません。
それとは全く真逆のイメージが、例の「海老すくい」でしょう。
家中、あるいは同盟相手も含めた宴会で場を盛り上げた――という話が伝わっています。
地域に伝承されていたようなものではなく、忠次の個人的な得意技だったのでしょう。
少々余談ですが、新潟県柏崎市の民俗芸能「綾子舞」の狂言に「海老すくい」という演目があります。
「殿様が家来に来賓用の海老を買ってこさせたが、殿様が代金を支払わないので家来が復讐する」というお話です。
話の内容からして忠次とは無縁そうですが、このネーミングがダブるというのもなかなか奇妙な話ですね。
ちなみに、綾子舞そのものの由来も忠次とは関係ありません。越後守護・上杉房能の自刃後、逃げ延びてきた妻の綾子が伝えた踊りで……と、それはともかく、忠次は陰に日向に家康を支えました。
そしてその忠義は織田信長にも重用され、大舞台で素晴らしい武功を立てます。
天正3年(1575年)5月、織田徳川連合軍が武田勝頼とぶつかった【長篠の戦い】でのことです。
設楽原に城塞化した陣地を構築した信長は、自軍の中から別働隊を出発させ、武田軍に奇襲を仕掛けることとしました。
そこで、こんなエピソードがあります。
信長本陣で軍議が行われた際、同席していた忠次が献策しました。
「長篠城周辺の砦に奇襲を仕掛けて落としましょう!」
しかし、信長の返事はにべもないものでした。
「そんな小細工は必要ない!」
頭からハッキリとダメ出しされ、軍議の後、忠次は信長から密かに呼び出されます。
「軍議の場では、間者への露見を恐れてああ言った。そなたの策は素晴らしい、早速、出立せよ」
そう真意を打ち明けられると、信長家臣の金森長近や、鉄砲隊500名を貸し与えられ、早速、奇襲部隊として出発することになりました。
忠次には地の利があったとされます。
あるいは信長から認められたことによる責任感もあったでしょう。
期待に応えるべく、直ちに出立した忠次隊は見事奇襲を成功。
本体と合流しようとする敗残兵にも容赦なく追撃をかけ、大きな戦果を挙げたばかりか、そもそもこの奇襲が織田徳川軍の勝利を決めた、と見る向きもあるほどです。
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信長はこの作戦が成功した後、
「お前は前だけでなく、後ろにも目があるのだな!」
と、忠次をベタ褒めしていたそうです。信長の褒め言葉ってユニークですよね。
家康もさぞ鼻が高かったことでしょう。
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