酒井忠次

酒井忠次/wikipediaより引用

徳川家

徳川四天王の最重鎮・酒井忠次~屈強な三河武士団をまとめたその生涯とは

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武田家に皮肉たっぷりの返歌

三方ヶ原の戦いの翌年正月、忠次が別の点で機転を利かせた逸話も伝わっています。

近年、武田信玄としてよく採用される肖像画・勝頼の遺品から高野山持明院に寄進された/wikipediaより引用

武田家から

「松枯れで 竹類(たけたぐい)なき 明日かな」

というイヤミったらしい句が送られてきたときのことです。

それぞれ

松=松平

竹=武田

と表していることが明らかなこの句に、家康も家臣も大激怒。

そこで忠次は、これにちょっとした落書き?を施しました。

漢字に直すと

「松枯れで 武田首なき 明日かな」

というように書き換え、イヤミ返しをしたのです。

「松は枯れないし、武田は首がなくなる」とは、これまたドギツイ言い返しようですね。

ついでに門松の竹を、首を切るかのように斜めに切り落としたとか。

例によって真贋の程ははっきりしないものの、文武両道という言葉そのままの人だったのでしょう。

 


実際の海老すくいは?

三河でも古参の武士――というと、いかにも渋くて強面な姿を想像してしまうかもしれません。

それとは全く真逆のイメージが、例の「海老すくい」でしょう。

家中、あるいは同盟相手も含めた宴会で場を盛り上げた――という話が伝わっています。

地域に伝承されていたようなものではなく、忠次の個人的な得意技だったのでしょう。

少々余談ですが、新潟県柏崎市の民俗芸能「綾子舞」の狂言に「海老すくい」という演目があります。

「殿様が家来に来賓用の海老を買ってこさせたが、殿様が代金を支払わないので家来が復讐する」というお話です。

話の内容からして忠次とは無縁そうですが、このネーミングがダブるというのもなかなか奇妙な話ですね。

ちなみに、綾子舞そのものの由来も忠次とは関係ありません。越後守護・上杉房能の自刃後、逃げ延びてきた妻の綾子が伝えた踊りで……と、それはともかく、忠次は陰に日向に家康を支えました。

そしてその忠義は織田信長にも重用され、大舞台で素晴らしい武功を立てます。

天正3年(1575年)5月、織田徳川連合軍が武田勝頼とぶつかった【長篠の戦い】でのことです。

長篠の戦い

長篠合戦図屏風/wikipediaより引用

設楽原に城塞化した陣地を構築した信長は、自軍の中から別働隊を出発させ、武田軍に奇襲を仕掛けることとしました。

そこで、こんなエピソードがあります。

信長本陣で軍議が行われた際、同席していた忠次が献策しました。

「長篠城周辺の砦に奇襲を仕掛けて落としましょう!」

しかし、信長の返事はにべもないものでした。

「そんな小細工は必要ない!」

頭からハッキリとダメ出しされ、軍議の後、忠次は信長から密かに呼び出されます。

「軍議の場では、間者への露見を恐れてああ言った。そなたの策は素晴らしい、早速、出立せよ」

織田信長/wikipediaより引用

そう真意を打ち明けられると、信長家臣の金森長近や、鉄砲隊500名を貸し与えられ、早速、奇襲部隊として出発することになりました。

忠次には地の利があったとされます。

あるいは信長から認められたことによる責任感もあったでしょう。

期待に応えるべく、直ちに出立した忠次隊は見事奇襲を成功。

本体と合流しようとする敗残兵にも容赦なく追撃をかけ、大きな戦果を挙げたばかりか、そもそもこの奇襲が織田徳川軍の勝利を決めた、と見る向きもあるほどです。

信長はこの作戦が成功した後、

「お前は前だけでなく、後ろにも目があるのだな!」

と、忠次をベタ褒めしていたそうです。信長の褒め言葉ってユニークですよね。

家康もさぞ鼻が高かったことでしょう。

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