鳥居元忠

鳥居元忠/wikipediaより引用

徳川家

鳥居元忠は西軍を足止めして伏見に散る~徳川の陰に忠臣の犠牲あり

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秀吉からの誘いを一刀両断

一つは、天正十四年(1586年)のこと。

豊臣秀吉のはからいにより、徳川家臣の数人に官位が与えられることになると、元忠にも声がかかりますが、次のように固辞しています。

「私は不才で三河の粗忽者なので、殿下の御前に出仕できるような者ではありません」

そんな元忠を気に入ったのか、あるいは腹が立ったのか。

秀吉は、元忠の嫡子である鳥居忠政を滝川雄利(かずとし)の養子に入れるよう求めたことがあります。

雄利は、織田家の重臣として知られる滝川一益の養子に入っていて、秀吉の近臣になっていました。

つまり秀吉は「お前の息子を俺に差し出せ」と言ったも同然。

そもそも「嫡子を他家の養子に入れろ」というのが、御家騒動を起こしかねない無茶振りであり、当然、元忠としてもキッパリ断ります。

「雄利殿の息女と倅を結婚させる、というお話ならばお受けします。我が家は徳川譜代の者ですので、子々孫々に至るまで他家に仕えさせる事は考えておりません」

秀吉相手に、なかなかの切り捨てぶりですね。

本能寺の変後の豊臣秀吉は、他家の懐柔や勢力削減のため、あちこちの大名の有力家臣にこういった話を持ちかけていますので、もはや呆れていたのかもしれません。

もう一つのエピソードは、小田原征伐の後、秀吉に従って東北へ向かっていたときのことです。

秀吉が小田原での戦功を称え、元忠へ感状を与えようとすると、

「私は豊臣家の家臣ではありませんので、殿下から感状をいただいて他家の方に誇るつもりもありません」

と、やはり固辞したそうです。

清々しいまでの断りっぷり……というか、感状ぐらい貰ったらいいじゃん……と少しだけ秀吉が可哀相になってきます。

まぁ、元忠と同じようなポジションにいた石川数正が、徳川から豊臣へ出奔したケースを考えると、そうでもないですかね。

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一方、そんな元忠ですから、家康からの評価は高く。

徳川が関東に移封されると、下総・矢作(元・千葉県香取市矢作)に四万石を与えられています。

常陸の佐竹氏、さらには北の伊達氏などに備えられる位置ですね。

その北、東北の玄関口である会津には、秀吉によって移封された蒲生氏郷がいたため、元忠は二番手あるいは三番手の抑えというところでしょうか。

そして、慶長3年(1598年)8月に豊臣秀吉が亡くなり、それから2年が過ぎると、いよいよ元忠、生涯最大の見せ場がやって参ります。

関ヶ原の戦いです。

 

家康と酒を酌み交わし今生の別れ

関ヶ原の戦いがなぜ鳥居元忠の見せ場なのか?

正確に言えば、その前哨戦となる【伏見城の戦い】がなぜ起きたのか?

関ヶ原の戦いが起きる前の慶長5年(1600年)7月、会津の大名・上杉景勝に謀反を起こす疑いがあるとして、家康は大軍を率いて出発しました。

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とはいえ家康がそうして上方を離れ、東北に向かえば、三成が何かしらの軍事的行動に出る可能性が高まります。

なんせ会津は、上方から相当遠い。

徳川軍が呑気に東へ向かえば、西軍に背後を突かれるおそれもありました。

では、それを防ぐためにはどうするか?

途中途中の城に信頼できる家臣を残しておくことが一番であり、伏見城に選ばれたのが元忠だったのです。

元忠が託されたのは、敵軍を喰い止めるための防御であり、場合によっては大軍に囲まれ、非常にリスキーな役割です。

しかし元忠であれば、絶対に寝返ったりし、簡単に屈服もしない。

実戦経験も非常に豊富でうってつけの役割ですが、家康の大軍が東へ移動した瞬間、伏見城は最前線に立つ危険な拠点となり、攻められれば討死必至の場所でした。

いわば本気の死の覚悟――。

いくら主君と家臣とはいえ、幼少期からの幼馴染を見捨てなければならないというのは、家康も気が進まなかったでしょう。

その証拠……とまでは断言できませんが、家康は、大坂を出立した6月16日に伏見城へ宿泊し、元忠と酒を酌み交わしたと言います。

今生の別れだったのでしょう。

その後、主君を見送った元忠は、籠城戦に備えて様々な準備を始めます。

用意できた兵数は1800人程度でした。

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