阿茶局(雲光院)

徳川家

阿茶局は家康の側室か側近か?徳川政権で重要視された女性参謀の生涯

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大坂の陣で交渉役を任され

阿茶局と対峙した大坂方の代表は常高院でした。

「初」の名で知られるお市の方の娘、つまり浅井三姉妹の次女であり、淀殿の妹に当たります。

もう一人のネゴシエーターは大蔵卿局(淀殿の乳母)。

他にも浅井三姉妹の面倒を見たとされる信長の弟・織田有楽斎などの男性陣も和議に動いていましたが、淀殿の発言力が大きかった豊臣家ですから、そこで対峙した阿茶局たちの功績は小さくないでしょう。

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家康としても、阿茶局ならばスムーズに交渉を運べると判断したはずです。

大河ドラマ『真田丸』では、斉藤由貴さんが演じ、巧みな話術で臨んでおられましたよね。

これは史実の家康も「政(まつりごと)に長けた女性もいる」という価値観を持っていたからかもしれません。

才女として有名なお梶(お勝)の方も、家康との間に娘を産み、その子が夭折しても、そのまま女性官僚のような形で仕え続けています。

実際、家康が元和二年(1616年)にその生涯を閉じた後も、阿茶局の立場は保たれました。

幕府から、屋敷と化粧料(女性に与えられる財産や権利のこと)を与えられ、生活に不便がないように扱われているのです。

家康自身が

「お前はわしの死後も寺に入らずに、徳川を支えるように」

と命じたため、髪を下ろさずに引き続き奥を取り仕切ったのでした。

阿茶局(雲光院/wikipediaより引用

 

女性の最高位である従一位に

阿茶局にとって最後の大仕事と言えるのが、徳川秀忠の娘・徳川和子の皇室入りでしょう。

後水尾天皇に入内する際、彼女が母親代わりを務めたのです。

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和子は阿茶局にとって義理の孫のようなものですから、晴れがましさもひとしおだったはず。

ただし、正式な身分がないままでは宮中に入れないため、阿茶局も位をもらうことになり、なんと女性の最高位である従一位が授けられています。

これによって、彼女は「神尾一位殿」「一位局」「一位尼」とも呼ばれるようになりました。

寛永七年(1630年)、75歳のときにも、秀忠と家光の上洛に際してお供をしていたそうですので、身体も丈夫な人だったのでしょう。

こうして陰に日向に徳川家を支えた彼女が亡くなったのは、寛永十四年(1637年)1月22日のことでした。

享年83。

実の子も義理の子供も立派に育て上げての大往生ですから、この時代の人としてはかなり充実した一生だったのではないでしょうか。

阿茶局の才覚を見抜いた家康も、それに応えた本人も素晴らしいですね。

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長月 七紀・記

【参考】
国史大辞典
『徳川家臣団の系図 (角川新書)』(→amazon

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