こちらは2ページ目になります。
1ページ目から読む場合は
【阿茶局】
をクリックお願いします。
お好きな項目に飛べる目次
お好きな項目に飛べる目次
大坂の陣で交渉役を任され
阿茶局と対峙した大坂方の代表は常高院でした。
「初」の名で知られるお市の方の娘、つまり浅井三姉妹の次女であり、淀殿の妹に当たります。
もう一人のネゴシエーターは大蔵卿局(淀殿の乳母)。
他にも浅井三姉妹の面倒を見たとされる信長の弟・織田有楽斎などの男性陣も和議に動いていましたが、淀殿の発言力が大きかった豊臣家ですから、そこで対峙した阿茶局たちの功績は小さくないでしょう。
淀殿(茶々)は豊臣家を滅亡に追い込んだ稀代の悪女なのか?波乱の生涯に注目!
続きを見る
家康としても、阿茶局ならばスムーズに交渉を運べると判断したはずです。
大河ドラマ『真田丸』では、斉藤由貴さんが演じ、巧みな話術で臨んでおられましたよね。
これは史実の家康も「政(まつりごと)に長けた女性もいる」という価値観を持っていたからかもしれません。
才女として有名なお梶(お勝)の方も、家康との間に娘を産み、その子が夭折しても、そのまま女性官僚のような形で仕え続けています。
実際、家康が元和二年(1616年)にその生涯を閉じた後も、阿茶局の立場は保たれました。
幕府から、屋敷と化粧料(女性に与えられる財産や権利のこと)を与えられ、生活に不便がないように扱われているのです。
家康自身が
「お前はわしの死後も寺に入らずに、徳川を支えるように」
と命じたため、髪を下ろさずに引き続き奥を取り仕切ったのでした。
女性の最高位である従一位に
阿茶局にとって最後の大仕事と言えるのが、徳川秀忠の娘・徳川和子の皇室入りでしょう。
後水尾天皇に入内する際、彼女が母親代わりを務めたのです。
皇室に嫁いだ秀忠の娘・徳川和子の苦悩が辛い~しかし他の姉妹達はもっと辛い
続きを見る
和子は阿茶局にとって義理の孫のようなものですから、晴れがましさもひとしおだったはず。
ただし、正式な身分がないままでは宮中に入れないため、阿茶局も位をもらうことになり、なんと女性の最高位である従一位が授けられています。
これによって、彼女は「神尾一位殿」「一位局」「一位尼」とも呼ばれるようになりました。
寛永七年(1630年)、75歳のときにも、秀忠と家光の上洛に際してお供をしていたそうですので、身体も丈夫な人だったのでしょう。
こうして陰に日向に徳川家を支えた彼女が亡くなったのは、寛永十四年(1637年)1月22日のことでした。
享年83。
実の子も義理の子供も立派に育て上げての大往生ですから、この時代の人としてはかなり充実した一生だったのではないでしょうか。
阿茶局の才覚を見抜いた家康も、それに応えた本人も素晴らしいですね。
あわせて読みたい関連記事
秀吉vs家康の総力戦となった「小牧・長久手の戦い」複雑な戦況をスッキリ解説
続きを見る
なぜ徳川秀忠が二代目将軍に選ばれたのか 関ヶ原の遅刻は問題なし?
続きを見る
家康の四男・松平忠吉が関ヶ原で大活躍!10万→52万石へ大出世するも
続きを見る
於愛の方(西郷局)を側室にして 息子の秀忠を将軍にした 家康の狙いとは?
続きを見る
淀殿(茶々)は豊臣家を滅亡に追い込んだ稀代の悪女なのか?波乱の生涯に注目!
続きを見る
皇室に嫁いだ秀忠の娘・徳川和子の苦悩が辛い~しかし他の姉妹達はもっと辛い
続きを見る
長月 七紀・記
【参考】
国史大辞典
『徳川家臣団の系図 (角川新書)』(→amazon)
他