祖父が徳川家康。
旦那の父が豊臣秀吉。
そんな家系に生まれたら、トンデモナイ生涯が待っていそうですよね?
実際に波乱万丈な結婚生活を迎えた姫がおります。
慶長2年(1597年)から約70年の波乱を生き、寛文六年(1666年)2月6日に亡くなった千姫です。
結婚相手は、天下人・秀吉の息子である豊臣秀頼でした。
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12年の夫婦生活が一番幸せだったかも…
ご存知の通り、豊臣秀頼は大坂夏の陣で亡くなります。
それが1615年のことですから、1666年に亡くなった千姫は城を脱け出してから実に半世紀も長生きしていたんですね。
享年70で、秀頼と暮らしたのは12年くらい。
長い人生から見れば割と短い夫婦生活でした。
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しかし、もしかしたらその頃が一番幸せだったかもしれません。
というのも、千姫は大坂城を出てから平穏な生活を送れたわけではなかったからです。
事の発端は大坂夏の陣で、千姫の処遇を決めたときのこと。
さすがの家康も、豊臣家を討つ決意は固めていたものの、孫娘である千姫まで殺すのは忍びなかったようで、「千姫を助け出した者に千姫をやろう」と言い出したのが悲劇の幕開けでした。
豊臣方でも「千姫は徳川の血筋だから助かるだろう。わざわざ助かる者まで道連れにするのは良くない」ということで、堀内氏久という武将が彼女を徳川の陣へ送り届ける事になります。
警護の直盛が一目惚れしてもうた
氏久は秀頼の意向に沿って、坂崎直盛という徳川方の武将へ千姫を送り届けました。
そして今度は直盛が徳川秀忠のところまで千姫を護衛したのですが……このとき、直盛が千姫に一目惚れしてしまったのです。
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この直盛さん、元は戦国一?のイケメンとして名高い宇喜多秀家の従兄だったので、顔は良かったんじゃないかと思いますが、いかんせん女心が読めません。
つい先日までは秀頼と仲睦まじい夫婦だったのに、無理やり引き離された千姫がすぐ他の男性と馴染めるはずはないですよね。
しかも秀頼が死ぬのはわかりきっていて、正真正銘の”今生の別れ”だったわけですから。
そんなときに言い寄られてもイエスと言いようがないどころか、千姫にとって直盛はイケメンぶりよりKYっぷりが記憶に残った事でしょう。
ちなみに直盛が宇喜多姓を捨てることになったきっかけは秀家とのケンカでしたので、このときたまたまKYだったんじゃなくて、生来DQNっぽい人だったようです。
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決して無能とかバカ殿ではないんですが、ねちっこい性格だったらしきエピソードがいくつか伝わっています。
家康、よりによって直盛に再婚相手を打診する
大坂夏の陣が片付いた後、千姫の再婚を決める事になりました。
この時代、一度離婚したからといって武家のお姫様がそのまま実家にいるケースはほとんどありません。
中には伊達政宗の長女・五郎八姫のように「私は(松平)忠輝様の妻ですから、再婚なんてしません!」と生涯言い続けたツワモノもいるにはいましたが、それはレア中のレア。
政宗が忠輝に対して後ろめたさがあったのかな?とかいろいろ複雑な事情があってのことです。
千姫は将軍の娘であるが故に、仲の良い弟・家光たちと暮らすことは許されません。
そこで徳川家康は「千姫に良い婿を探してくれんか」とよりによって直盛に依頼してしまったのです。
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