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【千姫】
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こうなったら奪い去ってやる!
無事に送ってきたこと自体は確かに功績といえなくもないですが、さすがの家康も死ぬ直前で人を見る目が衰えていたんでしょうか。
直盛もここで再び千姫を口説こうとはせず、命令通りに適切な再嫁先を探します。
武家に嫁ぐとまた何があるかわからない……という配慮があったのか、それともそういう命令だったのかはわかりませんが、ある公家との縁談がまとまり、後は縁組の儀式をするだけというところまで話が進みました。
たぶん千姫は江戸にいたでしょうし、嫁入り支+と旅の支度にかなり手間がかかっていたでしょう。
しかしここで、突然「千は本多忠刻(ただとき・忠勝の孫)に嫁がせることにしたから、あの話ナシで」という知らせが届きました。
直盛に手落ちがあったわけでもないのに、本当にいきなりです。
そしてわけがわからない上にメンツを潰された直盛は、とんでもない計画を立て始めた……とされています。
それは「本多家へ向かう千姫の行列を襲って、無理やり姫を奪おうとする」という誘拐計画でした。
計画は事前に漏れ、家臣に寝込みを襲われて
元は一目惚れした相手です。
やっと諦めて縁談を進めていたのにいきなりポシャられては、直盛が破滅的な行動に出ても、まぁ、少しは理解できる気はします。
現代で例えると「初恋の人に既に恋人がいたので諦めたが、数年後会ったら結婚したのにちっとも幸せそうじゃなかったので奪いたくなった」というような昼メロでしょうか。ちょっと無理がありますね。
しかし……。
結局この一件は未遂で終わります。
事前に計画を知った家臣が、直盛の寝込みを襲って首をとり、幕府へ差し出すという後味の悪い結末になったのです。
千姫がこの話を知っていたか否か、ハッキリしませんが、何とも後味の悪い話ですね。
ちなみに発端となった縁談破棄は、やっぱり家康のせいでした。
かつて自害させた長男・松平信康の娘(家康からすれば千姫と同じく孫娘)熊姫が、本多忠刻のお母さんだったのです。
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父の最期を知っていたが故に、将軍の血縁というだけではお家の安泰が図れないと思ったのでしょうか。
熊姫が「千姫を是非とも忠刻にくださいませ」と狸爺に頼み込んだことは想像に難くありません。
そして千姫の落ち着く先は京都から伊勢桑名藩(現・三重県桑名市)へと変わり、輿入れしていったのでした。
またも愛する夫を亡くし アラフォーで出家
千姫本人は誰とでもうまくやれる人だったようで、忠刻との間にはすぐ一男一女に恵まれました。
しかしそれもつかの間、長男・夫・姑・母親と立て続けの不幸に見舞われ、また江戸へ戻ることになります。
このとき千姫はまだ30歳程度でしたが、江戸に戻るなり出家して天樹院と名を改めました。
『もう嫁ぐのはたくさんだ』と思っていたのかもしれません。
その後は嫁いでいった娘に子供が生まれたり、弟の子供を世話したりと比較的穏やかに過ごしたようです。
でも、ここまでの経緯を知ると、果たして大阪城から助け出されたことは幸せだったのだろうか……?と思わざるをえません。
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長月七紀・記
【参考】
国史大辞典
渡邊大門『井伊直虎と戦国の女傑たち (知恵の森文庫)』(→amazon)
歴史読本編集部『物語 戦国を生きた女101人 (新人物文庫)』(→amazon)
千姫/Wikipedia