酒井了恒(酒井玄蕃)

絵・小久ヒロ

幕末・維新

戊辰戦争で鬼玄蕃と恐れられた酒井了恒は敵も驚くイケメン武将だった

源平時代の源義経

戦国時代に姫若子と呼ばれた長宗我部元親

容姿端麗、イケメンにして戦上手な武将は、いつの時代も際立って畏敬の念を持たれますが、幕末維新の頃にも東北にそんな美丈夫がおりました。

庄内藩の酒井了恒(のりつね)――。

薩摩の剣豪・大山綱良をして「おなごのようなよか稚児」と言わしめた優しげな外見に反し、新政府軍との戦いでは連戦連勝を重ねて「鬼玄蕃」として恐れられた武士(もののふ)

戦にめっぽう強く、見た目は中性的な美青年でありながら、さらには人格も高潔という、まるでマンガのチートキャラです。

もし彼が新政府サイドで活躍していれば、その後の史実は、坂本龍馬勝海舟、あるいは西郷隆盛すら凌駕する人気だったかもしれません。

何もかもが美しき敗者・酒井了恒(酒井玄蕃)。

明治9年(1876年)2月5日が命日となる、その生涯を追ってみました――。

※マンガ版はコチラへ!

 


鬼かと思えばよかちごじゃった!

『西郷どん』で、北村有起哉さんが演じている大山綱良(大山格之助)。

戊辰戦争で出羽方面(東北の日本海側)を転戦し、戦果はいまひとつ冴えないものでした。

なぜならその行く手に庄内藩が立ちはだかったからです。

※以下は大山綱良の関連記事となります

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庄内藩は名将・酒井了恒(さかい のりつね)以下、高い士気を誇っていました。

彼のあまりの強さ、大胆不敵さに、いつしか敵は彼を“鬼玄蕃”と呼び始めたほどです。

「また鬼玄蕃にやられたか!」

味方の敗走報告を聞くたび、おそらく大山は苛立ったことでしょう。

戊辰戦争が終結した維新後の東京。

かつての宿敵“鬼玄蕃”と対峙した大山は、思わず目を丸くして言いました。

「容貌かくも温和で、おなごのようなよか稚児じゃったとは……」

そう。目の前にいたのは、まるで女性のようにほっそりとしていて美しい、そんな青年だったのです。

美青年という意味の“よかにせ(若者)”ではなく、美少年を意味する“よか稚児”というフレーズを使ってしまったところに、大山の「好みのタイプじゃ!」という本音が出ている気がします。

では庄内藩とは一体どんな存在だったのか?

幕末では如何なる役割を果たしたか?

本稿の主役・酒井了恒の前に少し触れておきたいと思います。

 


海坂藩のモデルとなった庄内藩

現在の山形県庄内地方にあった庄内藩は、藤沢周平の時代小説の舞台となる「海坂藩」のモデルとして有名です。

統治したのは酒井家。

あの徳川四天王の一人・酒井忠次を祖とする御家です。

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しかし元々、置賜(おきたま)地方をのぞく山形県は、最上義光の最上家が支配する57万石の大藩でした。

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それが江戸時代初期のころの最上騒動がもとで同藩が改易(1622年)に追い込まれ、領地が4つに分けられると、そのうちの一つが庄内藩(約14万石)として、酒井家に受け継がれていきました。

最上義光による善政が行き届いていたためか。

当時からこの地方は色々と恵まれていました。

例えば「北楯大堰」による農業生産の増大です(以下の関連記事に詳細)。

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農業面だけでなく商業面でも以下のように恵まれておりました。

・紅花栽培によってもたらされる「のこぎり商法」の恩恵(往路で紅花を売り、復路は西日本で仕入れた品物を売ること/押しても引いても利益が出ることから“のこぎり”と呼ばれました)

・最上川開削による船運発達

・東日本最大の港「酒田港」による貿易促進

村山地方は藩主交替が安定しなかった中、庄内藩は家臣領民一丸となって信頼関係を持つ、比較的統治が安定した藩であったのです。

山形県には、古い由緒ある、そしてとても豪華な雛人形がたくさん残されています。

これも、紅花貿易による豊かな暮らしの名残です。

※同じ山形県でも、置賜地方は全国的にも財政難で有名な米沢藩でした

 


幕末庄内藩の受難

幕末において悲運の藩といえば、会津藩が真っ先に思い浮かぶかでしょう。

しかし庄内藩も、当時は会津藩と並んで敵意を集めるほど、追い詰められています。

会津藩が憎悪をぶつけられた一因として、お抱えの新選組が京都警備の際、倒幕派相手に猛威を振るったことがあげられます。

新選組の母体となった浪士組は、その大半が江戸へと引き揚げました。

そして彼らは【庄内藩御預かり】となり、江戸の警護を担当したのです。

文久3年(1863年)から、庄内藩は江戸市中の警備しておりました。

のちに西軍から憎悪をぶつけられることになる会津藩と庄内藩。

江戸はじめ東日本では、悪から市民を守る力強い存在でした。

それは

【京で肥後様(松平容保)、江戸で酒井様、どちら梅やら桜やら】

と、花に譬えられたほどの人気ぶり。

物騒な事件が頻発する京都と比べ、当時の江戸は治安が守られておりました。

しかし、慶応3年(1867年)の終わりから状況が変化します。

相楽総三、益満休之助ら、西郷の密命を帯びた者たちが暗躍しだしたのです。

殺人、強奪、暴行……現代でいうならばテロリズムと呼べる、そんな悪事をはたらいた彼らは、薩摩屋敷へと姿を消しました。

薩摩御用盗――江戸の人々は彼らをそう呼び、ふるえあがります。

しかし、それこそ一派の狙い。

彼らの目的は武力衝突を誘発するため、挑発行為を繰り返したのでした。

そして庄内藩も、ついに堪忍袋の緒が切れます。

慶応3年12月25日(1868年1月19日)、彼らは薩摩藩邸に乗り込み、焼き討ちにしたのです。

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戊辰戦争への幕は、こうして切って落とされたのですから、庄内藩が敵意を向けられないはずがありません。

江戸の治安維持をマジメに行い、凶悪なテロリスト相手に戦っただけ。

にもかかわらず、あまりに酷な仕打ちでした。

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