本多正純

こちらは本多正純の父である本多正信/wikipedia

徳川家

本多正純は父の正信に似てキレ者なれど不遇の最期 一体何があった?

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本多正純
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家康天下取りの総仕上げに貢献する

大久保長安事件と同年の慶長19年(1614年)、古希を過ぎた家康にとって、総仕上げとも言える合戦が起きます。

大坂冬の陣】です。

豊臣方にしてみれば、難攻不落の大坂城で籠城が長引き、徳川傘下に下っていた豊臣恩顧の大名たちが寝返れば、あわよくば……と、そんな一縷の望みもあったのかもしれません。

しかし、徳川の体制は盤石。

大坂城にいる秀吉の妻・淀殿と、その遺児・豊臣秀頼は次第に追い詰められ、いよいよ和睦交渉となりました。

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このとき、和睦条件として堀の埋め立てを進言したのが本多正純とされます。

正信と正純は、奸悪ぶりが強調されているため、注意は必要です。この堀の厳しい埋め立ては、東軍と西軍の解釈違いといった要素も絡んでいます。

そして慶長20年(1615年)、和睦が破れてまたも戦いへ。

冬の陣に続く【大坂夏の陣】ですが、無防備な裸城に立て篭もったところで大坂城になす術はなく、ここに豊臣家は滅びました。

最後の仕事を終えたように、元和2年(1616年)、家康と正信も相次いで没します。

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駿府と江戸に分かれていた体制は一元化され、正純も江戸の徳川秀忠のもとへ向かい、年寄(のちの老中)に任じられました。

こうした人事には加増も伴い、2万石を加増されて5万3千石の大名となります。

元和5年(1619年)には、下野国小山藩5万3千石からさらに加増され、宇都宮藩15万5千石にまで達しました。

ただでさえ恨みを買いやすい立場にある上に、ライバルである大久保忠隣も失脚している。

そうした状況から正純は加増を固辞していたのですが、警戒が緩んでしまったのでしょうか。

 

失脚し、世を去る

各地の大名に何か不手際があると、瞬く間に処断されてしまう――。

徳川秀忠の時代は、大名の改易が相次いでいました。

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それが緩和されるのは4代・徳川家綱時代。

秀忠の子である保科正之の提言が受け入れられてからのこととなります。

そんな秀忠時代に改易された大名として、出羽山形最上家があります。

山形城を接収した本多正純は、自らも処断されると予見していたのかどうか。

本多正純糾問の使者である伊丹康勝と高木正次は、11ヶ条の罪状を突きつけたとされます。

その中に、宇都宮城に吊り天井を仕掛け、秀忠暗殺を謀ったことが挙げられています。

黒幕は、大久保忠隣の改易に腹を立てていた家康の娘・亀姫(加納御前・母は築山殿)という噂も。

というのも彼女の娘は大久保家に嫁いでおり、それを改易させた本多が憎いというわけですね。

さらには宇都宮に本多が入ったことにより、亀姫の孫である奥平忠昌が古河移封となった。その恨みを晴らすために密告したというのです。

ただ、釣り天井というのはあまりに荒唐無稽であり、これが正純失脚の理由かどうか諸説あります。亀姫黒幕説も、盛られた話といえそうです。

「あの恨みを買った連中なら、逆襲されるだろう……」という世間の風当たりもあったのでしょう。

秀忠としては正純に温情をかけ、出羽国由利5万5千石を与えるとしました。

しかし正純はそもそもが身に覚えがないと固辞したため、秀忠が激怒。

改易とされ、身柄は出羽由利の佐竹義宣預かりとさせられました。

かくして家康時代の側近は消え去り、秀忠側近である土井利勝の時代が到来したのです。

寛永14年(1637年)2月29日、本多正純は出羽の横手でひっそりと世を去りました。

享年73。

その5年前に秀忠は没しており、すでに徳川家光の時代が到来していたのでした。

 

狡兎死して走狗烹らる

家光時代は【海禁】と【禁教】政策が確固たるものとなり、本多正純が家康たちと共に蒔いた種が芽吹くこととなります。

同時に、江戸の幕閣につきものの側近同士の苛烈なパワーゲームも引き継がれてゆきます。

将軍が代替わりすると、先代の側近を排除する。

幕閣から失脚したものは、ひっそりと世の流れから引き離されていく。

そんな政治が続くこととなります。

本多正純は、柳沢吉保間部詮房田沼意次たちの先例といえるのかもしれません。

なお、本多正純と同じ「上野介」と名乗った小栗忠順は、幕末の動乱の際、新政府軍により冤罪で斬首刑に処されています。

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『どうする家康』では、當真あみさんが亀姫を愛くるしく演じていました。そして本多正純は井上祐貴さんが演じます。

爽やかでいきいきとしていて、戦乱の世が終わった新時代を明るく生きてゆきそうに思えます。

しかし、史実はそんなに甘い世界でもありません。江戸時代初期の政争の中でかれらは生き、滅んでゆくのです。

本多正純と正勝の墓(秋田県横手市)/photo by 掬茶 wikipediaより引用

狡兎死して走狗烹(に)らる――狡猾な敵が滅びたら、功臣は粛清されるという言葉があります。

本多正純の生涯は、その言葉を思い起こさせるものでした。

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文:小檜山青
※著者の関連noteはこちらから!(→link

【参考文献】
『徳川家康事典』(→amazon
歴史群像編集部『戦国時代人物事典』(→amazon

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