幕末きっての切れ者とされる幕臣の小栗忠順(おぐりただまさ)。
彼が「上野介(こうずけのすけ)」を名乗っていたところ、周囲は縁起が悪いと心配していました。
「上野介といえば、本多に吉良だろ……大丈夫か?」
「ハハハッ、名前で人は変わらないさ」
そう一笑に付したとされる小栗本人。
確かに吉良上野介は赤穂事件の不幸で知られますが、本多はちょっと不明……という方も少なくないかもしれません。
本多上野介とは本多正純――家康の参謀・本多正信の息子となります。
なぜ、その上野介が縁起悪いのか?
というと、父は幕府創設の立役者とも言えるのに、息子である正純は不名誉極まりないトラブルに巻き込まれて、不遇の末路を迎えたのです。
いったい何が起きたのか?
寛永14年(1637年)2月29日は本多正純の命日。
その生涯を振り返ってみましょう。
本多正信の嫡男として生まれる
永禄6年(1563年)から翌年にかけて勃発した【三河一向一揆】で、徳川から離反した本多正信。
その直後の永禄8年(1565年)、正信のもとに男児が生まれました。

本多正信/wikipediaより引用
父不在の中、母と子は大久保忠世の庇護のもとにいたとされ、後に父が復帰すると正純も徳川家に仕えるようになります。
そんな正純の名が確認できるのは慶長5年(1600年)【関ヶ原の戦い】あたりから。
従五位下・上野介となったのは慶長6年(1601年)のことで、慶長8年(1603年)に家康が征夷大将軍となると、正純も側近として重用されるようになりました。
日本史特有の政治体制として、天皇と上皇の両者共に権力を持つ二元政治があげられます。
そもそもは天皇外戚による【摂関政治】に対する牽制として成立したとされるこの体制。
徳川にどう関係あるのか?というと、家康もまた慶長10年(1605年)秀忠に将軍職を譲ると、駿府で大御所政治を始めるのでした。

徳川家康/wikipediaより引用
図式としては以下の通りです。
【江戸】
将軍:秀忠
側近:大久保忠隣
【駿府】
大御所:家康
側近:本多正純
この両者の調整役として、本多正純は駿府にいました。
そして慶長13年(1608年)、正純は下野国小山藩3万3千石の大名として取り立てられます。
岡本大八事件で歪んだパワーゲーム
大坂の陣が起こる少し前、江戸と九州を舞台に本多正純を巻き込む大きな事件が起きました。
慶長17年(1612年)の【岡本大八事件】です。
肥前の大名である有馬晴信から、正純は突然こう言われたのです。
「ポルトガル船撃沈の恩賞として、旧領を返してもらえるとのお約束はどうなりましたか? 白銀六百枚を支払ったのですが……」
ただ事ではない申し出であり、正純には何のことやらさっぱりわからない。
調べてみれば自身の与力である岡本大八が勝手に約束し、賄賂を受け取っていたというではありませんか。
投獄された大八は、意趣返しとばかりに有馬晴信の悪事を暴露――長崎奉行・長谷川藤広の暗殺を企んでいたとのことで、徳川家康は両者の言い分を聞き、罰しました。
岡本大八は火刑。
有馬晴信は甲斐へ流し、自刃としたのです。キリシタンである晴信は自刃を拒み、斬首されました。

有馬晴信の木像(台雲寺所蔵)/wikipediaより引用
事件の背景には【南蛮貿易】があります。
家康が香木の伽羅を欲しがったことから、晴信は貿易を通してそれを得ていたのですが、後に幕府により規制されるキリスト教や海外交易への懸念が表面化した事件とも言えます。
それだけでなく、この一件は“将軍の側近争い”という負の一面も露にしました。
家康の譜代側近が対立していたのです。
本多正純の与力である岡本大八は失脚しただけでなく、徳川家臣団にもキリシタンがいると告げ、本多正純に打撃となりました。
一方、この処断には大久保忠隣の与力である大久保長安が大きく関わっています。
本多からすれば、大久保は目障りなヤツ!でしかなく、翌年、また別の事件が勃発するのです。
大久保長安事件――慶長18年(1613年)に大久保長安が没すると、その不正蓄財が問題視され、一族の男子が揃って切腹させられたのでした。
慶長19年(1614年)には大久保忠隣も不可解な経緯で改易とされ、当時からこう囁かれていました。
「本多正信と正純父子が仕組んだことらしい……」
そして……。
家康天下取りの総仕上げに貢献する
大久保長安事件と同年の慶長19年(1614年)、古希を過ぎた家康にとって、総仕上げとも言える合戦が起きます。
【大坂冬の陣】です。
豊臣方にしてみれば、難攻不落の大坂城で籠城が長引き、徳川傘下に下っていた豊臣恩顧の大名たちが寝返れば、あわよくば……と、そんな一縷の望みもあったのかもしれません。
しかし、徳川の体制は盤石。
大坂城にいる秀吉の妻・淀殿と、その遺児・豊臣秀頼は次第に追い詰められ、いよいよ和睦交渉となりました。

淀殿/wikipediaより引用
このとき、和睦条件として堀の埋め立てを進言したのが本多正純とされます。
正信と正純は、奸悪ぶりが強調されているため、注意は必要です。この堀の厳しい埋め立ては、東軍と西軍の解釈違いといった要素も絡んでいます。
そして慶長20年(1615年)、和睦が破れてまたも戦いへ。
冬の陣に続く【大坂夏の陣】ですが、無防備な裸城に立て篭もったところで大坂城になす術はなく、ここに豊臣家は滅びました。
最後の仕事を終えたように、元和2年(1616年)、家康と正信も相次いで没します。
駿府と江戸に分かれていた体制は一元化され、正純も江戸の徳川秀忠のもとへ向かい、年寄(のちの老中)に任じられました。

徳川秀忠/Wikipediaより引用
こうした人事には加増も伴い、2万石を加増されて5万3千石の大名となります。
元和5年(1619年)には、下野国小山藩5万3千石からさらに加増され、宇都宮藩15万5千石にまで達しました。
ただでさえ恨みを買いやすい立場にある上に、ライバルである大久保忠隣も失脚している。
そうした状況から正純は加増を固辞していたのですが、警戒が緩んでしまったのでしょうか。
失脚し、世を去る
各地の大名に何か不手際があると、瞬く間に処断されてしまう――。
徳川秀忠の時代は、大名の改易が相次いでいました。
それが緩和されるのは4代・徳川家綱時代。
秀忠の子である保科正之の提言が受け入れられてからのこととなります。

保科正之/wikipediaより引用
そんな秀忠時代に改易された大名として、出羽山形最上家があります。
山形城を接収した本多正純は、自らも処断されると予見していたのかどうか。
本多正純糾問の使者である伊丹康勝と高木正次は、11ヶ条の罪状を突きつけたとされます。
その中に、宇都宮城に吊り天井を仕掛け、秀忠暗殺を謀ったことが挙げられています。
黒幕は、大久保忠隣の改易に腹を立てていた家康の娘・亀姫(加納御前・母は築山殿)という噂も。
というのも彼女の娘は大久保家に嫁いでおり、それを改易させた本多が憎いというわけですね。
さらには宇都宮に本多が入ったことにより、亀姫の孫である奥平忠昌が古河移封となった。その恨みを晴らすために密告したというのです。
ただ、釣り天井というのはあまりに荒唐無稽。
これが正純失脚の理由かどうか諸説あり、亀姫黒幕説も盛られた話と言えそうです。
「あの恨みを買った連中なら、逆襲されるだろう……」という世間の風当たりもあったのでしょう。
秀忠としては正純に温情をかけ、出羽国由利5万5千石を与えるとしました。
しかし正純はそもそもが身に覚えがないと固辞したため、秀忠が激怒。
最終的に改易とされ、身柄は出羽由利の佐竹義宣預かりとさせられました。
かくして家康時代の側近は消え去り、秀忠側近である土井利勝の時代が到来したのです。
寛永14年(1637年)2月29日、本多正純は出羽の横手でひっそりと世を去りました。
享年73。
その5年前に秀忠は没しており、すでに徳川家光の時代が到来していたのでした。
狡兎死して走狗烹らる
家光時代は【海禁】と【禁教】政策が確固たるものとなり、本多正純が家康たちと共に蒔いた種が芽吹くこととなります。
同時に、江戸の幕閣につきものである側近同士の苛烈なパワーゲームも引き継がれてゆきます。
将軍が代替わりすると、先代の側近を排除する。
幕閣から失脚した者は、ひっそりと世の流れから引き離されていく。
そんな政治が続くこととなります。
本多正純は、柳沢吉保、間部詮房、田沼意次たちの先例といえるのかもしれません。
なお、本多正純と同じ「上野介」と名乗った小栗忠順は、幕末の動乱の際、新政府軍により冤罪で斬首刑に処されています。

小栗忠順/wikipediaより引用
『どうする家康』では、當真あみさんが亀姫を愛くるしく演じていました。
本多正純は井上祐貴さん。爽やかでいきいきとしていて、戦乱の世が終わった新時代を明るく生きてゆきそうに思えます。
しかし、史実はそんなに甘い世界でもありません。
江戸時代初期の政争の中で彼らは生き、最期は滅んでゆくのです。
狡兎死して走狗烹(に)らる――狡猾な敵が滅びたら、功臣は粛清されるという言葉があります。
本多正純の生涯は、その言葉を思い起こさせるものでした。
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【参考文献】
『徳川家康事典』(→amazon)
歴史群像編集部『戦国時代人物事典』(→amazon)
他





