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【内藤正成】
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伊賀越え
天正十年(1582年)6月2日。
織田家で出世頭だった明智光秀が謀反を起こします。
ご存知、本能寺の変ですね。
なぜ光秀は信長を裏切ったか? 本能寺の変における諸説検証で浮かんでくる有力説
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家康はこのとき堺を見物しており、命からがら三河までの逃避行を成し遂げます。
【神君伊賀越え】として知られており、堺から三河までの逃亡ルートは下記のようになります。
詳細は以下の記事に譲るとしまして、
神君伊賀越え・家康の逃亡ルートはどこだ?本能寺の変後に堺から三河へ命がけの脱出
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精鋭を選び抜いて出向いた家康の危機管理能力の高さ、そして正成たちの実力がわかりますね。
大いに信頼されていた証でもありましょう。
老齢で小田原征伐には参戦せず
本能寺の変後に迎えた徳川家の一大合戦――小牧・長久手の戦い。
この一戦で内藤正成は井伊直政隊の先鋒に加わり、以降も武働きで活躍を続けます。
しかし、天正十八年(1590年)【小田原征伐】には参戦しませんでした。
老齢を理由に従軍を断ったのです。既に還暦を超えていましたので、もっともな話でしょう。
逆に考えると、周囲から「還暦を迎えてなお、前線での活躍を期待されていた」のであり、信頼のほどがうかがえます。
ただ、ここから意外と長生きをされまして。
家康が関東に移封された際、正成は武蔵国埼玉郡に5000石を与えられています。
亡くなったのは慶長七年(1602年)4月12日で、関ヶ原から少し経った頃でした。
晩年は穏やかなものだったようで、特段目立つエピソードは伝わっていません。
1万石を超える大名にこそなりませんでしたが、彼の子孫は大身旗本として栄えていきます。
スター武将の多い徳川家にあって中枢ではなくても、かと言って存在感がないワケでもない。
「山椒は小粒でもぴりりと辛い」といった感じの人だったのではないでしょうか。
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長月 七紀・記
【参考】
日本人名大辞典
煎本増夫『徳川家康家臣団の辞典』(→amazon)
山下昌也『家康の家臣団 天下を取った戦国最強軍団(学研M文庫)』(→amazon)
ほか