内藤正成

内藤正成/wikipediaより引用

徳川家

桶狭間や伊賀越えの家康に同行した内藤正成~徳川十六神将にも選ばれる忠臣の生涯

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伊賀越え

天正十年(1582年)6月2日。

織田家の出世頭だった明智光秀が突如謀反を起こしました。

ご存知、本能寺の変ですね。

家康はこのとき堺を見物しており、命からがら三河までの逃避行を成し遂げます。

【神君伊賀越え】として知られており、堺から三河までの逃亡ルートは下記のようになります。

詳細は以下の記事に譲るとしまして、

神君伊賀越え
神君伊賀越え・家康の逃亡ルートはどこだ?本能寺の変後に堺から三河へ命がけの脱出

続きを見る

精鋭を選び抜いて出向いた家康の危機管理能力の高さ、そして正成たちの実力がわかりますね。

大いに信頼されていた証でもありましょう。

 


老齢で小田原征伐には参戦せず

本能寺の変後に迎えた、徳川家にとっての一大合戦である【小牧・長久手の戦い】。

この一戦で内藤正成井伊直政隊の先鋒に加わり、以降も武働きで活躍を続けます。

井伊直政隊は、長久手の戦いで森長可池田恒興らを討ち取ったことで知られる、一つの激戦区ではありました。

小牧・長久手の戦い

『小牧長久手合戦図屏風』※中央の赤い旗に「井」の字が井伊直政隊/wikipediaより引用

一方で、天正十八年(1590年)の【小田原征伐】には参戦していません。

老齢を理由に従軍を断ったのです。既に還暦を超えていましたので、もっともな話でしょう。

逆に考えると、周囲から「還暦を迎えてなお、前線での活躍を期待されていた」のであり、信頼のほどがうかがえます。

ただ、ここから意外と長生きをされまして。

家康が関東に移封された際、正成は武蔵国埼玉郡に5000石を与えられています。

亡くなったのは慶長七年(1602年)4月12日で、関ヶ原から少し経った頃でした。

晩年は穏やかなものだったようで、特段目立つエピソードは伝わっていません。

1万石を超える大名にこそなりませんでしたが、彼の子孫は大身旗本として栄えていきます。

スター武将の多い徳川家にあって中枢ではなくても、かと言って存在感がないワケでもない。

「山椒は小粒でもぴりりと辛い」といった感じの人だったのではないでしょうか。


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長月 七紀・記

【参考】
日本人名大辞典
煎本増夫『徳川家康家臣団の辞典』(→amazon
山下昌也『家康の家臣団 天下を取った戦国最強軍団(学研M文庫)』(→amazon
ほか

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