大坂夏の陣

大坂夏の陣図屏風/wikipediaより引用

徳川家

大坂夏の陣の全貌がわかる各武将の戦闘まとめ~幸村や又兵衛の散り際とは?

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六日 真田幸村 vs 2代目片倉小十郎

基次らの部隊で辛うじて生き残った人々は信繁(幸村)らの隊に収容され、二回戦目が始まりました。

徳川方から前線に出てきたのは、伊達家の重臣・片倉重長(片倉重綱)。

伊達政宗の教育係だった片倉景綱の息子で、同じ通称”小十郎”を使っていました。二代目小十郎と呼ぶこともありますね。

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重長と信繁は当初銃撃戦を展開しました。そして徐々に距離を詰め、重長自身が兵や騎馬武者を切り伏せるほどの激戦になります。

信繁隊の勢いは凄まじく、重長含めた伊達軍は次第に押し返されていきました。

しかし信繁はここで兵を退き、この方面はしばらくにらみ合う状態に……。

結果としては、主な将を失った大坂方の負けですね。

ちなみにこの戦で重長の戦いぶりを見た信繁が

『あの若いヤツやるな!アイツなら、ウチの子供たちをかくまってくれるに違いない』

と見込んで、この晩、子供たちをこっそり送り届けています。

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信繁が重長あてに

「アンタはいい男だ!ウチの娘をもらってくれないか!?ついでに他の子供も保護してくれたら嬉しいな(チラッチラッ」(超訳)

という矢文を送ったなんて話もありますね。

冬の陣でも大活躍して有名になっていた信繁に武勇を見込んでもらえたのですから、感激したでしょう。

 


六日 八尾・若江の戦い

道明寺の戦いが上記のようにド派手な経緯だったため影が薄くなりがちですが、別方面でも熾烈な戦いが繰り広げられていました。

以下のような布陣です。

【豊臣方】
・長宗我部盛親
・木村重成

【徳川方】
・藤堂高虎
・井伊直孝

ただし、木村隊では兵がなかなか言うことを聞かなかったり、道を間違えて沼地に突っ込んだりと決してスムーズな行軍ではなかったようです。この時点で嫌な予感がプンプンしますね。

長宗我部隊のほうは、お家が改易されたとはいえ元家臣たちが何人かいたので、木村隊よりはマシだったようです。

対戦の組み合わせとしては長宗我部隊vs藤堂隊(八尾の戦い)、木村隊vs井伊隊(若江の戦い)。

もちろん他の武将もたくさんいますが割愛しております。

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まず八尾方面では、盛親が騎馬隊も全て下馬するように言いつけ、物陰に伏せさせていました。そして藤堂隊が間近に迫ったところで立ち上がり、一斉に槍を繰り出して混乱させたのです。

この作戦が功を奏し、藤堂隊では先方にいた高刑(たかのり・高虎の甥っ子)が戦死するほどの被害が出ます。

退却中にも藤堂家の人が亡くなり、さらに終始長宗我部隊のほうに勢いがあったため、この戦い(八尾の戦い)は数少ない大阪方の勝利となります。

盛親の代に長宗我部家が滅びてしまったので、彼の評判は戦国武将としてはあまりよくないですが、この戦いを見る限りではさすが長宗我部元親の息子という感じがしますね。

若江方面では、道中のgdgdを振り切る勢いで木村隊が頑張ります。

地形を活かし敵を誘い込んで銃撃しようとすると、その前に井伊隊が転進して、白兵戦がスタート。

重成自身も槍を振るって戦いましたが、この方面では徳川方のほうが圧倒的な兵数だったこともあり、残念ながら敗れてしまいます。

ただ、井伊隊に与えた損害も大きく、翌日の戦いで務めるはずだった先鋒を辞退するほどでした。

これは藤堂隊も同じです。

 


徳川圧勝も遺恨を残す展開に

この方面での戦いでは、さらに徳川方でイヤなオチがついています。

実は徳川方の後方に松平忠直結城秀康の息子)がいたのですが、彼はこの戦いの家康からこっぴどく怒られているのです。

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なぜか?
と言うと「味方が有利になったタイミングで一緒に攻めるべきだったのに、何もしなかったのはどういうわけだ!」という理由でした。

戦の前に家康から「勝手な行動を慎め」と言われていたため、忠直は素直にその言いつけを守っただけなのです。

「言うこと聞いたのに何で怒られなきゃいけないんだよ!」とキレたくもなったでしょう。

戦の経験が豊富とはいえない忠直にベストな時期を見計らえという家康も無茶振りですし、言いつけを素直に受け取りすぎた忠直もそれはそれで問題かもしれません。

こんな感じで、双方翌日の戦に大きな影響を残して6日の戦闘は終わりました。

こうしてみると、大坂方もかなり奮戦していたことがわかりますね。

しかし、翌7日は大坂城の陥落へと繋がってしまいます。

方角としては大坂城の南側二ヶ所。

天王寺口と岡山口でそれぞれ激戦が繰り広げられました。

戦闘が開始されたのはどちらも正午頃、終了も午後三時とほぼ同時進行ですが、ややこしいので一つずつ見てみましょう。

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