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【大坂夏の陣】
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七日 天王寺口の戦い
一番有名なのは、やはり真田幸村(信繁)でしょう。
他には……。
大谷吉治(よしはる):関が原で義に殉じて亡くなった大谷吉継の息子
明石全登:前日も信繁と同じく奮戦
毛利勝永:実は道明寺の戦いで殿軍(しんがり・戦場から最後に撤退する軍)を任されていた
細川興秋:細川忠興の次男で家を飛び出していた
前日多くの将を失っていながらまだ人材が残っていました。
八尾の戦いで勝利を収めていた長宗我部盛親は、兵の損耗が激しかったため前線には出てこれず、北側の守備にまわりました。
このことからも、おそらく長宗我部隊に元家臣が多かったであろうことが推測できますね。
徳川方では、ざっくり言うと戦国時代に名を馳せた人物の息子達を主とした布陣がされています。
例えば無傷伝説こと本多忠勝の息子・本多忠朝、浅野長政の息子・浅野長晟(ながあきら)などです。
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戦国武将でも比較的若手(だいたい1550年代以降生まれ)の人の場合は、本人はもちろん息子と一緒に参戦している例もあります。
細川忠興や伊達政宗などですね。
家康も息子どころか孫連れですから、これが戦でなければ心温まる一家団欒といいたいところなのですがそうもいきません。
既に大御所となっていた家康の本陣があったため、どこの軍も戦々恐々とした面持ちだったことでしょう。
口火を切ったのは、豊臣方・毛利隊による銃撃でした。
幸村の前に奮戦した部隊がいたからこそ
いつの時代も先手必勝というのは変わらないようで、勢いに乗って本多忠朝を討ち取ります。
別の隊もこれに乗って前進し、家康本陣を丸裸にするほどでした。
「真田信繁が家康の本陣を襲撃した」という話はこのときのものです。
島津忠恒の言葉【真田は日の本一の兵(ひのもといちのつわもの)】があまりに有名すぎるため、まるで幸村一人の功績にも思えてしまいますが、実はその前に勇戦した部隊がいたんですね。
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大坂方は何度も退いては攻め、攻めては引きを繰り返しました。
が、絶対的な兵数の差により少しずつ押し返されてしまいます。
そして信繁は、前日家康の叱責(イチャモン)にブチ切れていた松平忠直隊によって討ち取られ、他の隊も乱戦の中で主将を失い壊滅状態に陥ります。
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最後まで戦線を保っていたのが、戦をおっぱじめた毛利隊だったというのが何ともいえません。
もちろんサボっていたわけではなく、四方を囲まれたため仕方なく城へ引き上げています。
岡山口の戦い
こちらは天王寺口の戦闘が開始されてから、追いかけるような形で戦が始まっています。
後見についていた立花宗茂が
「秀忠様が出て行くと的になってしまいますので、後ろでどっしり構えていてください」
と言ったにもかかわらず、血気にはやる現役将軍・徳川秀忠は前進してしまい、父親と同じく大坂方から突撃を受けてしまいます。あーあ。
大阪方は大野治長・治房兄弟など、現代の一般人からすればあまり猛将のイメージがない人々でした。
それでも、秀忠の陣は大混乱に陥ります。
秀忠にとって当初は「待ってました!」という状況だったようですが、お目付けに来ていた本多正信に「いやいや、上様が御自ら手を出すまでもありません(だから大人しくしてろボケ)」となだめられています。
この頃秀忠は30代半ばですし、将軍様ですからね。
よほど関が原での大遅刻や、冬の陣の際、無茶な行軍をして家康に怒られたのを気にしていたと見えます。
ちなみに、後方のほぼ見学席といってもいいようなところには徳川義直や徳川頼宣といった幼い弟達がおりました。
混乱が落ち着いてからはやはり数で勝る徳川方が有利になり、秀忠の周辺も守りを固め、大野隊他大阪方を押し返します。
形勢逆転を見た大坂方は秀頼自らの出馬を待っていたといわれますが、淀殿が納得せず、結局間に合いません。
後方のお飾りであっても、総大将が戦場にいるだけで士気は上がる。というか、そうでないと戦う気力も湧いてきませんよね。
淀殿は、織田信長の姪っ子なのに(信長の妹・お市の方の娘)、その辺、残念だったなぁ、と。
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