歌川国芳の描いた武田信玄/wikipediaより引用

徳川家

なぜ信玄は家康に激怒し徳川領へ攻め込んだのか?北条との複雑な関係が影響

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義信の死がもたらしたもの

『どうする家康』では、3回の放送にわたって【三河一向一揆(三河一揆)】に苦しむ家康が描かれました。

一方、信玄にも、苦い状況がありました。

永禄8年(1565年)10月に嫡男の武田義信が亡くなってしまうのです。

かつては自害へ追い込まれたとされ、現在では病死とも指摘されていますが、いずれにせよ信玄と義信が対立する要素はありました。

義信の妻は今川義元の娘・嶺松院。

信玄が今川との同盟を維持するならば、義信の地位は安泰ですが、今川を切り捨てて織田・徳川に接近するとなると、そうともいえません。

しかも、異母弟・勝頼の縁談相手は、織田信長の養女となった遠山夫人(法号:龍勝院)で話がまとまります。

信玄の去就に不満を募らせた義信が、父の排除を企ててもおかしくはない状況――そんな最中に亡くなるわけです。

そして武田と今川は決裂。

義信の妻が今川へ戻されると、いつ信玄が攻めてもおかしくない状況となりました。

氏真にしても、むろん黙っているわけではありません。上杉との密約で対抗しようとしました。

『どうする家康』ではなぜか上杉謙信も出てきませんでしたが、信玄の動きは謙信の動向に左右されるため、その説明がないとわかりにくくなります。

武田勢は別に勿体ぶって動かなかったわけでもなく、常に越後を気にかけていなければならなかったのです。

逆に言えば、上杉の脅威がなければいつだって他国へ侵攻できる。

実際そうなれば、さっさと駿河へ攻め込んでしまった方が得策――と信玄が判断してもおかしくはありません。

没落する今川より、三河を平定して上り調子の徳川と手を結んだほうがメリットもあるでしょう。

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『どうする家康』の第11回放送「信玄の密約」では、義信の死や、上杉と今川の怪しい動きといった要素はありました。

第15回で突如クローズアップされた家康の異母弟・源三郎は、そうした過程で交換された人質だったのです。

 


氏康の娘・早川殿が鍵を握っていた

外交にも長けていた信玄。

駿河侵攻に際しては、家康との盟約だけを重視したわけではなく、しっかりと背後にも備えていました。

奥州会津の雄・蘆名盛氏、あるいは揚北衆(あがきたしゅう)・本庄繁長などにより、上杉謙信を牽制させたのです。

その上で、満を持して今川氏真に迫ります。

永禄11年(1568年)末、甲駿同盟は完全に破綻、武田勢が駿河へ攻め込みました。

今川氏真の妻である早川殿は、北条氏康の娘です。

そもそも早川殿の母である瑞渓院(ずいけいいん)にしても、今川から北条へ嫁いだ姫であります(以下に略式の系図を掲載しておきます)。

こうして北条と強固な関係を築いている今川氏真を追い詰めればどうなるか?

『どうする家康』では、今川氏真と徳川家康がタイマン勝負で決着をつけたようにも見せ、家康の温情で氏真が救われたようでした。

糸こと早川殿は足を引きずり、氏真からは邪魔者扱いされ、無力でオロオロしていただけのように思えます。

しかし、氏真の命運を握っていたのは彼女の実家・北条です。

娘である早川殿が、輿にも乗らず、裸足で逃げてきたため、北条氏康が信玄に激怒。

「この屈辱は雪(そそ)ぐしかあるまい!」

と怒りの北条勢に、さしもの武田軍も苦戦を強いられます。

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その後の北条の動きも見逃せません。

武田と交戦状態に入った北条は上杉に接近し、氏康は我が子を上杉謙信の養子・景虎とし、手を結びました。

こうした複雑極まりない同盟関係があったのです。

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