今治城と藤堂高虎像

豊臣家

藤堂高虎「7度主君を変えねば武士とは言えぬ!」戦国転職王の生涯とは?

武士は主君に尽くすもの。
御家のために命を張ってこそ価値がある――。

なんて言ったら、ガハハハハと笑われるのが戦国時代。
現代の外資系企業のように【能力一本】で大名家を渡り歩くことは、悪いどころか正当な生きる道でありました。

ただ、それでもこのセリフはやっぱり強烈。

「7度主君を変えねば武士とは言えぬ!」

誰あろう、藤堂高虎という戦国武将の言葉です。

 

藤堂高虎8名の主君とは?

実際に7回も主君を変えたの?
嘘でしょwww

と思われる方のため、最初に高虎の主君を数えておきますと……。

浅井長政

②阿閉政家(あつじまさいえ)

磯野員昌(いそのかずまさ)

織田信澄(つだのぶずみ)

豊臣秀長

⑥豊臣秀保(ひでやす)

豊臣秀吉

徳川家康(以降、秀忠→家光と続く)

最初の浅井長政から数えて計8人、きっちり7回変えていますね(親子の代替わりなどによって数え方は変わりますが)。

高虎公園(滋賀県)にある藤堂高虎像

ただし、闇雲に「こんなところで働けんわ!」と転職を繰り返すムチャクチャな人物だったわけではなく、豊臣秀長のときは秀長が亡くなるまで長く仕え、さらにその養子・豊臣秀保が横死したときには責任を感じて高野山に入っているほどです。

忠誠心がうんたらかんたらの話ではない。

そもそも「一つの家に生涯尽くさねばならない」というのは、江戸時代からの話。
いつどこで誰が死ぬかわからない戦国時代においては、すぐに自分の能力を評価し、高い禄(給料)で召し抱えてくれる主人を探すほうが重要なのです。

高虎のように、そういう生き方を好んだ武将を「渡り奉公人」と呼びます。

高虎は、その中でも軍を抜いて成功した人物です。

一体どんな人物だったのか?
その誕生から見て参りましょう。

 

渡り歩いて秀吉弟・秀長のもとへ

藤堂高虎は弘治2年(1556年)に生まれました。
父は近江の地侍・藤堂虎高で、母は多賀良氏の女とら(妙青夫人)。

父の虎高もまた、若い頃は渡り奉公人だったようです。かの上杉謙信に仕えていたこともあったとか。

彼の人となりについては記録が乏しく、あまり詳しいことはわかりません。
成長してからの高虎や、その息子・高次がかなり恵まれた体躯の持ち主だったことからすると、虎高も平均以上の体格だった可能性がありますね。

高虎が最初に仕えたのは、地元近江の大名で、織田信長の義弟だった浅井長政です。

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この頃の藤堂家は一応武士ではあったものの、ほとんど農民と同じような状態だったそうなので、一兵卒から成り上がっていったのですね。

初陣は、織田徳川連合軍と浅井朝倉連合軍がぶつかった【姉川の戦い(1570年)】でした。
このとき15歳。

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しかし若気の至りで刃傷事件を起こしてしまい、長政の下を離れることになります。
それから、阿閉政家や磯野員昌など浅井家臣の家を渡り歩きました。

そして浅井氏が滅びると、今度は信長の甥っ子・津田信澄つだのぶずみのもとへ。

当時の織田家のうなぎ登りっぷりからすると、なかなか良い就職先に見えます。
……が、ここもウマが合わなかったらしく、天正九年(1576年)になってやっと、羽柴秀吉の弟・秀長のところに腰を落ち着けることになりました。

と、これが大正解。

なぜかというと、この後に津田信澄は、とんだ貧乏くじを引かされるからです。

彼は、信長を排除しようとして逆に殺された【弟・織田信行の息子】という血縁だけでなく、あの【明智光秀の婿】でもありました。
そのため、本能寺の変後はその去就を疑われて、織田信孝(信長の三男)と丹羽長秀に殺されてしまったのです。

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もし高虎が、その場にいたら……かなり歴史が変わっていたかもしれませんね。

 

秀長の家臣として各戦場で大活躍!

豊臣秀長の下についたのは、別の意味でも大正解でした。

豊臣秀吉の弟として知られ、政治や戦だけでなく、個々の武将や吏僚たちの調整などを一手に引き受けていた秀長。
人が好いだけでなく豊臣軍団を束ねる中心的存在でもあり、その仕事は多岐に渡ります。

つまり、数え切れないほど活躍の場が用意されていたのです。

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彼等の戦歴をざっと見てみますと

・三木城攻め
・但馬国一揆殲滅
・伊勢峯山攻略
・亀山城攻略
賤ヶ岳の戦い
小牧長久手の戦い
・四国征伐
・九州征伐

また、秀長が関わったと思われるさまざまな築城の現場で、技術を身につけていったと考えられます。
これは、高虎が学問的に築城を学んだという形跡がうかがえないためです。

秀長が紀伊を与えられた後、高虎は築城等に向けて材木を集める仕事を任されていたことがありました。少なくともそのあたりから、普請に関するさまざまな実務に携わっていたでしょう。

主君である秀長も、高虎を重用し、気前よく名馬を与えたり加増もしました。
天正15年(1587年)には、紀州粉河城2万石の城主になっています。

高虎は、ここでやっと「この方こそ!」と思えたでしょう。
彼が主家を重んじる体制でいたことは、とあるエピソードに現れています。

 

浮いてしまった仙丸を養子に迎えた

実は高虎の主人・豊臣秀長には、仙丸という養子がいました。
血縁的には、丹羽長秀の三男です。

本能寺の変の後、旧信長家臣団が柴田勝家につくか・羽柴秀吉につくかで割れていた頃に、長秀を懐柔する作の一つとして迎えた人でした。

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しかし、天正十九年(1591年)に「秀長の跡を継ぐのは甥の豊臣秀保(秀次の弟)」と決まりました。

既に秀長が病身となっていたこと、秀長の娘・おみやとの結婚が条件だったことなどが理由と思われます。
年頃としては、仙丸のほうがおみやと釣り合うのですが……。

もしも仙丸を通して丹羽氏が羽柴氏に食い込んでくるようなことになっては、後々不都合が生じるおそれがあります。
秀吉と秀長は、その点を危惧したのでしょう。

こうして、仙丸の存在は浮いてしまいました。

実家に戻ろうとしても、長秀は天正十三年(1585年)に亡くなってしまっていますし、跡を継いだ異母兄の丹羽長重とは、おそらく面識がありません。
なにせ、この時点でも仙丸はたった9歳。秀長のもとへ来たのは4歳のときのことでしたから、本人としてはどうなるのか不安で仕方なかったと思われます。

高虎はここで、自ら
「仙丸様を養子にお迎えしたいのですが」
と申し出ました。

高虎にもこの時点では息子がいなかったため、これでどの方面も丸く収まりました。

 

秀保の死を悼み高野山で出家

少々時系列が前後しますが、仙丸は成長後「藤堂高吉」を名乗り、朝鮮の役や伏見城普請などで活躍しています。

……が、しばらく後になって高虎に実子・藤堂高次が生まれたため、高吉は分家扱いとなってしまいます。
なんとも運のないお方です。

とはいえ、仙丸や秀保には責任のないことです。

高虎は秀保にも忠実に仕え、秀長が亡くなった後は後見役として支えました。
朝鮮の役では高虎が渡海し、秀保は名護屋にとどまっています。

しかしその数年後、文禄4年(1595年)に秀保は17歳の若さで急死してしまいました。

秀保の死の真相は不明です。

秀吉は彼の死を悼むどころか、葬儀を密葬で済ませたともいわれており、怪しさ満点。

同年7月には、秀保の実兄・秀次が切腹していることもあり、
「秀保は秀次と共に、秀吉に謀反を起こそうとしている」
と疑われて殺された……なんて説もありますが、はてさて。

若い頃からほうぼうを渡り歩き、やっと落ち着いた先で秀長・秀保という二人の主人を失った高虎が、意気消沈するのも無理のない話です。
高野山に上って出家してしまいました。

 

秀吉の強引に呼び戻され宇和島入り

そんなところで横槍を入れたのが、ボケが始まったとされる太閤・豊臣秀吉。

「お前みたいな優秀なヤツが坊主になるなんて認めない! 宇和島に領地をやるから帰って来い!!」
として半ば強引に復帰させられてしまいます。

このあたりの領主だった戸田勝隆という大名が朝鮮の役からの帰路で病死していたため、代役として選ばれたのです。

勝隆は、古くから秀吉に仕えてきた人でしたが、大名としての経験が浅く、地元民の心をつかむことができずにいました。
特に豊臣政権が行った検地については、どこの地方でも大不評であり、それを勝隆は何の交換条件も出さず強行してしまったため、大規模な一揆を起こされています。

高虎はそうした不信感漂う地域を、うまく治めていかなくてはなりませんでした。

農民が検地を嫌がるのは、平たく言えば収入が減るからです。

中世までの日本において、地方の政治は一言で言えば”テキトー”。
どこにどのくらいの広さの田畑があって、どの程度の収穫が見込めるか?など、中央政府は把握していませんでした。

農民たちはそれを逆手に取って、親から子へ、子から孫へと開墾を進め、密かに収入を増やしていたのです。

検地をされてしまえば、そうやって先祖代々努力してきたことがバレ、以前より多くの税を取られてしまいます。

ただでさえ天災や流行り病、戦の巻き添え等々で、いつ誰が死ぬかわからない時代。
生きている間に少しでも豊かな暮らしをしたいと思うのは当然のことです。

高虎は自分も流浪してきたことがあるだけに、農民のそうした感情を理解していたと思われます。

そこで、高虎は一つ条件を出しました。

領内の農民に対し、
「開墾を奨励する代わりに、一年間は税を取らない」
と告げたのです。

こうしたやり方を”鍬下年季”といい、大名が農民を懐柔する策としてよく用いられました。

 

関ヶ原では大谷軍と相対

高虎は、他にも領内の神社を修繕したり、米を収めることによって、地域に溶け込もうと努力しています。
数年間こうして地元民の感情は徐々に軟化させたことにより、検地もスムーズに行うことができました。

とはいえ、難しい仕事を押し付けられたという点は変わりません。
しかもこれは、朝鮮の役と同時進行でやっています。高虎のような器量人でも、相当にストレスがかかったことでしょう。

それだけが理由というわけではない……と思われますが、高虎は秀吉が亡くなる直前から、徳川家康に接近します。

家康が慶長五年(1600年)の会津征伐に出陣したときも従っていますし、関が原の戦いでも東軍でした。
当日は、最前線の大谷吉継隊と相対しています。

同時に、豊臣恩顧の大名のうち、
脇坂安治
・赤座直保
朽木元綱
・小川祐忠
たちに調略を仕掛け、合戦当日に寝返らせ、大谷隊へ攻撃させたのも高虎でした。

従来は
小早川秀秋が裏切って大谷隊を攻撃したため、東軍が勝った」
とされていましたが、近年では
「高虎の調略を受けた四人の隊が裏切ったから」
という見方が強まっています。

高虎が大名に復帰せず、この場にいなかったら……なんて、”もしも”を考えてしまいますね。
ちなみに、大谷隊と藤堂隊に関するエピソードもあります。

 

吉継の代わりに五助の首を取る

大谷吉継は病(ハンセン病と推測されています)によって顔が崩れ、それを恥じていたといいます。

現代の大谷吉継像は「頭巾で顔を隠していた」イメージがありますが、これは江戸時代の説話で付け足された描写のようです。
ただし眼を病んでいたのは確実だったようですので、眼の異常を他人に晒したくなかった……という可能性はありますね。

それはともかく、武将であれば、より立派な武将以外には首を取られたくないものです。

しかしこのときの大谷隊は、裏切り者達に攻撃されている状態。
自分の首を裏切り者の踏み台にされるくらいなら、人知れず腹を切るほうがまだマシです。

吉継は数少ない家臣を連れ、山中でひっそりと腹を切り、その首を隠すよう言い残しました。
これに応じたのが、吉継の側近だった湯浅五助という人物です。

しかし、五助が吉継の首を隠したちょうどその時、高虎の家臣である藤堂高刑(たかのり)に見つかってしまいました。

高刑は高虎の甥で、当時24歳の若者。
五助は吉継の側近として知られていたため、願ってもない機会でした。

とはいえ藤堂の血が為せる技か、高刑は五助が何かを隠していたことに気づきます。

「何を隠したのか?」

そう尋ねると、五助は答えました。

「私の主人の首をここに埋めたのだ。私の首を渡す代わりに、このことを黙っていてくれないか」

自分の命と引き換えに主人の名誉を守る、という忠臣ぶりに高刑は感銘し、その約束を守ることを誓って、五助の首を持って帰りました。

当然、甥が武功を上げたことを高虎は大いに喜びました。
二人で家康の本陣に報告すると、家康は手柄を褒めた後、案の定、こう尋ねられます。

「五助ほどの者ならば、吉継の居場所か首のありかを知っているはず。討つ前に聞かなかったのか?」

難しい質問ですよね。
もし「尋ねなかった(その前に首をとってしまった)」と答えれば、粗忽者(うっかり者)・不心得者として功績が帳消しになるどころか、藤堂家への風当たりが強まったでしょう。

そこで高刑は、真正面からこう言い切ります。

「聞きましたが、言わないと約束する代わりに五助の首を貰い受けたので言えません。お気に召さないのなら、どうぞ私をご処分ください」

この高刑の律儀さに徳川家康は感心し、槍と刀を与えてこの件を不問にします。

まあ、家康からすれば「吉継が死んだかどうか」が重要ですからね。
もしも吉継の首を挙げていれば、そのぶんの褒賞もやらなければなりませんから、出費が浮いてラッキーぐらいに思ったかもしれません。

 

渡辺了との確執 ついには奉公構を出す

関が原の戦いで家康が勝ち、平和な時代が徐々に訪れるようになると、高虎も徳川家に仕え続け、働き続けました。
2つほど例を挙げましょう。

・宇和島(愛媛県宇和島市)に、海水を引き入れ五角形の堀を巡らせた「宇和島城」を築城
大坂夏の陣で大損害を受けながらも敢闘

ただし、後者については身内での確執も……。

当時の高虎の家臣に、渡辺了(さとる)という人がいます。
彼は若いころ高虎同様に渡り奉公人をしており、関が原までは西軍・増田長盛に仕えていました。

西軍が敗れた後は、長盛の居城・大和郡山城を東軍方に引き渡しています。
そのときの指揮ぶりが見事だったため、受け取りにきた高虎が惚れ込み、二万石で召し抱えたほどの人です。

しかしその了が、大坂夏の陣で高虎と仲違いすることになったのです。理由は……。
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