小西行長

小西行長(落合芳幾作)/wikipediaより引用

豊臣家

小西行長が秀吉に重用された理由とは?商人から武将に転身して大出世

1600年11月6日(慶長5年10月1日)は西行長の命日です。

大河ドラマ『どうする家康』では池内万作さんが演じ、公式発表では「豊臣政権を支えたキリシタン大名」と表現されていますが、行長には他に大きな特徴が他にあります。

商人から武士へ転身した戦国武将――。

代々の武家出身ではなく、商人としての経験が重要視され、秀吉傘下においては“水軍”の将として重んじられたのです。

身分の低い出自である秀吉は、頼れる血縁者が少ないため、多彩な武将をスカウトしていましたが、小西行長もその一人。

いったい行長とは、いかなる人物だったのか?

生涯を振り返ってみましょう。

小西行長/Wikipediaより引用

 


堺の商家に生まれ直家→秀吉に仕える

小西行長は永禄元年(1558年)、泉州堺の商人・小西隆佐のもとに生誕しました。

隆佐の二男であり、その後、宇喜多直家のもとへ商人として出入りしているうちに見い出され、武士に抜擢。

直家の使者として秀吉を訪れた際、今度は秀吉にもその才覚を気に入られ、仕えることとなりました。

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いったい行長が見い出された才能とは何なのか?

水軍を率いる才知でしょう。

本能寺の変】を経て、西へ東へ天下取りの軍を進める秀吉にとって、水軍力は必須の存在。

海を越え、唐入り(明征服)を視野に入れる際にも貴重な存在となります。

天正13年(1585年)には豊臣姓を与えられた行長は、小豆島一万石を領有することとなりました。

小豆島ではキリスト教の布教も進められています。

高山右近の勧めもあり、行長が天正14年(1586年)にキリシタンとなると、島でも信仰がすすめられ“キリシタン灯籠”といった歴史が残されています。

 


宇土城主となる

将来的に唐入りも視野に入れた秀吉は、西国攻めを加速させます。

天正15年(1587年)の【九州攻め】で島津氏を降伏させると、天正16年(1588年)には【肥後国人一揆】が勃発して、これを平定。

数々の戦功を挙げた小西行長には、20万石が与えられました。

肥後宇土城主の大名となったのです。

さらには天草の国人一揆も制圧して、一万石を得ると、天草では小西行長の統治によりキリシタンが増えてゆきます。これが後に【島原の乱】へ繋がります。

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キリシタンの信仰を庇護し、西洋の技術を取り入れ、貿易を見据えた統治を行う――。

商人出身の立場を活かした行長は、従来の武家には見られない才能を開花させました。

しかしその一方で、対立する武将も現れます。領地が近接し、同じく肥後を統治する加藤清正です。

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