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【浅野長政】
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関ヶ原本戦に参加しないのに大幅出世
意外にも【関ヶ原の戦い】では、家康側についています。
豊臣秀頼にとっても義理の親戚筋なわけですから、西軍についても良さそうなものです。
福島正則などいわゆる”武断派”のように三成憎さでというわけでもなさそうですし、単純に趨勢を読んでのことだったのかもしれません。
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後年「三成が生きていた頃はマシだったのに」とぼやいたなんて逸話も伝えられていますから、三成の「能力はあっても人望がごく一部にしかない」という点から長くは続かないと思ったのでしょうか。

関ケ原合戦図屏風/wikipediaより引用
長政は秀忠についていったため、関ヶ原本戦には参加していません。
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代わりと言っては何ですが、幸長が東軍の先方を見事勤め上げた功績で和歌山37万石に移封され、浅野家として大きく躍進しました。
長政本人は家康の側で働くことを選んでおり、息子とは別に領地を与えられています。
秘書のような立ち位置が一番落ち着く、かつ能力を発揮できるタイプだったんですかね。そりゃ地味……もとい、なかなか華々しい逸話は出てこないわけです。
そして慶長十六年の春、穏やかにその生涯を閉じたのでした。
長政の三男・長重の子孫が忠臣蔵で……
で、ここまでなら「ふーん」で済む話なのですが、彼の子孫には超有名人がいます。
名字でお気づきの方もおられるでしょうかね。
長政の三男・長重の子孫が忠臣蔵(元禄赤穂事件)の当事者・浅野内匠頭長矩なのです。
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もしかして、こっちが有名すぎるせいでご先祖の影が薄くなっちゃってるんですかね、あばばばばば。
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長月 七紀・記
【参考】
国史大辞典
滝沢弘康『秀吉家臣団の内幕 天下人をめぐる群像劇 (SB新書)』(→amazon)
浅野長政/wikipedia