こちらは2ページ目になります。
1ページ目から読む場合は
【浅野長政】
をクリックお願いします。
お好きな項目に飛べる目次
関ヶ原本戦に参加しないのに大幅出世
意外にも【関ヶ原の戦い】では、家康側についています。
豊臣秀頼にとっても義理の親戚筋なわけですから、西軍についても良さそうなものです。
福島正則などいわゆる”武断派”のように三成憎さでというわけでもなさそうですし、単純に趨勢を読んでのことだったのかもしれません。
福島正則は秀吉子飼いの武将だったから?徳川政権で喰らった「転封改易」の悲劇
続きを見る
後年「三成が生きていた頃はマシだったのに」とぼやいたなんて逸話も伝えられていますから、三成の「能力はあっても人望がごく一部にしかない」という点から長くは続かないと思ったのでしょうか。
長政は秀忠についていったため、関ヶ原本戦には参加していません。
なぜ徳川秀忠が二代目将軍に選ばれたのか 関ヶ原の遅刻は問題なし?
続きを見る
代わりと言っては何ですが、幸長が東軍の先方を見事勤め上げた功績で和歌山37万石に移封され、浅野家として大きく躍進しました。
長政本人は家康の側で働くことを選んでおり、息子とは別に領地を与えられています。
秘書のような立ち位置が一番落ち着く、かつ能力を発揮できるタイプだったんですかね。そりゃ地味……もとい、なかなか華々しい逸話は出てこないわけです。
そして慶長十六年の春、穏やかにその生涯を閉じたのでした。
長政の三男・長重の子孫が忠臣蔵で……
で、ここまでなら「ふーん」で済む話なのですが、彼の子孫には超有名人がいます。
名字でお気づきの方もおられるでしょうかね。
長政の三男・長重の子孫が忠臣蔵(元禄赤穂事件)の当事者・浅野内匠頭長矩なのです。
赤穂事件=赤穂浪士の討ち入りはテロ事件?史実はどのように進んだか
続きを見る
もしかして、こっちが有名すぎるせいでご先祖の影が薄くなっちゃってるんですかね、あばばばばば。
あわせて読みたい関連記事
豊臣秀吉のド派手すぎる逸話はドコまで本当か~検証しながら振り返る生涯62年
続きを見る
石田三成・日本史随一の嫌われ者の再評価とは? 豊臣を支えた忠臣41年の生涯
続きを見る
信長を裏切り滅ぼされた浅井長政 29年の儚き生涯 その血は皇室へと続いた
続きを見る
小谷城の戦い(信長vs長政)で浅井滅亡~難攻不落の山城がなぜ陥落したのか
続きを見る
賤ヶ岳の戦いで秀吉と勝家が正面から激突! 勝敗を決めたのは利家の裏切りか
続きを見る
のぼうの城(忍城)城主だった成田氏長~関東大戦乱を生き抜く
続きを見る
長月 七紀・記
【参考】
国史大辞典
滝沢弘康『秀吉家臣団の内幕 天下人をめぐる群像劇 (SB新書)』(→amazon)
浅野長政/wikipedia