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【淀殿(茶々)】
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秀吉没後の誤算
慶長3年8月18日(1598年9月18日)――秀吉が世を去りました。
異例の速さで元服させられたとはいえ、まだまだ幼い我が子の豊臣秀頼。
前田利家と利長の父子に、その守役を託します。
徳川家康・秀忠には、それぞれ祖父と舅となって秀頼を守るよう言い残しますが、意地の悪い言い方をすればこの時点で豊臣の滅亡は決まっていたのではないでしょうか。
血族で王朝を存続させるには、子が不可欠。
男子は世継ぎ、女子は婚姻のために必要ですが、成り上がりの秀吉は、この貴重な手札がとにかく足りない。
頼りになる弟の豊臣秀長すら、先んじて亡くなっているのです。
ましてや自らは、主君の織田家を滅ぼしておきながら、自身の家だけは存続を願うというのもあまりに甘い見通しでしょう。
誤算は早くも起こります。
秀頼を守るため睨みを利かせていた前田利家が、慶長4年(1599年)に没してしまうのです。
石田三成と、秀吉子飼いの将との間に生じた軋轢も、酷くなるばかり。元々は、この軋轢も【朝鮮出兵】から生じたとされます。
いわば秀吉による失政は、淀殿と秀頼の母子にどんどんのしかかってゆきます。
大坂城に残された淀殿と北政所も、全面的に協力して事態に対処するしかありません。
ところが慶長4年(1599年)、北政所は大坂城西の丸を家康にゆずり、城を出てしまうのです。
家康に追い出されたようにも思えますし、フィクションではしばしば憎み合っているかのように描かれる北政所と淀殿は、実際はその後も連携しています。
例えばその翌年、慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いのときもそうです。
淀殿の妹である初の夫・京極高次が東軍につき、近江大津城を攻めると、淀殿と北政所から使者が出されて和睦が成立。
この城から救出されたのが京極龍子でした。
北政所、淀殿、京極龍子は全員が秀吉の妻にあたります。彼女たちは、女の敵が女であるどころか、連帯して難局にあたっていたのです。
そして【関ヶ原の戦い】で石田三成は敗北。捕縛された三成は斬首され、父と兄は自害しました。
徳川家康の優勢は確たるものとなります。
しかし淀殿や秀頼の身の回りが即座に急変するわけでもありません。
この戦いは、あくまで「どちらが豊臣の忠臣としてふさわしいのか?」というスタンスを決める戦いです。
慶長6年(1601年)、陸奥の戦国大名である伊達政宗は、今後について彼なりの考えを今井宗薫宛書状に、こう書き記しています。
大阪の仕置きは、私としては全く納得できかねます。
秀頼様に悪意はありませんが、今後不逞浪人どもが何やらしでかすとも限りません。
秀頼様は伏見に移るか。そうでなければ幼少のうちに江戸にでもいらっしゃるか。
もしも、万一、乱世にでもなり、何者かが大坂に入り担ぎ上げたらどうするのでしょうか。
政宗としては秀頼の首に縄をつけておいた方が良いと、何度も今井宗薫に告げています。
政宗からすれば、秀頼一人の器量の問題ではなく、不穏な芽は摘んだ方がよいという考えですね。
・大坂城という大要塞
・関白の子という大義名分
・乱世で主君を失った浪人たち
こうしたものを放置しておけば、火を見るより明らかであろう、と指摘していたのです。
淀殿の母親としての心得は、当時から悪様に罵られてきました。
蝶よ花よと甘やかし、我が子を駄目にしてしまう母親像――それがゴシップ的に語られ、寺社仏閣の整備に金を注ぎ込んだことも批判されます。
ただし、彼女一人だけの問題でもありません。
泰平の世に生まれたら武士だろうと心根が穏やかになるものです。
それまで軍備に金をかけてきた権力者が、泰平の世に寺社仏閣整備に金をかけることはそこまで非常識ともいえない。
政宗の指摘通り、懸念材料を放置していたことに原因があるように思えます。
大坂城の“おふくろ様”
関ヶ原の後、北政所は弟・木下家定と共に京都新城を抜け出しました。
そして慶長8年(1603年)に出家し「高台院」となります。
一方で淀殿は、秀頼の「おふくろ様」――大坂城にいて、権威を有する存在です。
北政所が出家した慶長8年(1603年)は、千姫が輿入れしてきた歳にもあたります。
11歳の娘と共に、妊娠中の妹・江もこのとき伏見まできたと推察され、そのまま伏見にとどまった江はこの地で娘を産んでいます。
この娘は生まれてすぐに姉・初の養女となり、後に京極忠高の妻となります。
政治的な思惑の外で、浅井三姉妹は彼女たちなりのやり方で、絆を深めているように思えます。
とはいえ、輿入れしてきたまだ千姫は幼い。
慶長17年(1612年)、千姫は16歳となり、成人の儀式である鬢除ぎが行われました。婚姻関係はかくして確固たるものとなりました。
しかし、そのころには不穏な空気が立ち込めつつあったのです。
方広寺鐘銘事件
慶長16年(1611年)、後陽成天皇の譲位にあわせて、徳川家康が上洛しました。
このとき豊臣秀頼は19歳。
それまで上洛要請があっても淀殿が断わり続けてきましたが、今回は二条城で面会の手筈が整えられます。
会見の同行者には北政所(高台院)もいました。
そこに現れた若く力強い秀頼に対し、家康が警戒心を強めた――そんな展開はフィクションではお馴染みですね。
しかし、家康にとっては、もっと憂慮すべき状況がありました。
上洛した秀頼は、朝廷や公家とのつながりを深め、関白の子であることを示してしまったのです。
『吾妻鏡』を精読していた徳川家康。
何かを嗅ぎつけてもおかしくはありません。
東西に権力が両立するなど、所詮は絵空事。
伊達政宗がくどくど語っていた“火薬”のにおいを家康が感じないはずもなく……慶長19年(1614年)に入り【方広寺鐘銘事件】が起こります。
歴史の授業でもおなじみ、方広寺大仏殿の鐘銘文に、家康にとって不吉な文字が記されたとして、問題になったものですね。
それが以下の通り。
国家安康→家康の諱の間に一字入れて、わざと切っている
君臣豊楽→豊臣を君主として楽しむと読める
秀吉が始めた方広寺大仏殿の造営は、京都地震や火災により頓挫していました。
それがようやく終わり、家康が難癖をつけているようにも見えますが、実際に銘文を考えた文英清韓は「敢えて書いた」と語っています。
大坂城という火薬庫には、小さな火でも絶対に投げ入れたらいけなかった。
弁明のため、大坂城からは片桐且元が駿府へ派遣され、淀殿も大蔵卿局ら三名の女性を使者として家康のもとへ送りました。
別々に派遣された使者たちは帰路合流し、且元は和解へ向けた案を説明します。
豊臣サイドの全面的な屈服――この提案を聞いた大蔵卿局たちは且元に対して不信感を抱きます。
針の筵に座る心地となったのでしょう。
豊臣と徳川を取り持つことができたであろう、頼みの綱の片桐且元も大坂を離れてしまいます。
豊臣恩顧の片桐且元が家康と淀殿の間で板挟み~だから「大坂冬の陣」は勃発した
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茶々は起請文まで書いて引き留めようとしますが、もはや手遅れでした。
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