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【清洲会議】
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清洲城に集まった織田家臣たち
天正10年(1582年)6月27日、清洲城に以下の織田家臣たちが集まりました。
柴田、丹羽、池田が待っているところへ、三法師を肩に抱いた秀吉が颯爽と現れ
一同「してやられた!」
と三人が悔やんでも後の祭り、信孝を推していた勝家は歯噛みする――というのは前述の通り創作ありきの話で、主に江戸時代の『太閤記』の名場面として登場しています。
柴田勝家が織田信孝を推していたというのも、結果から逆算した創作であり、まとめるとこうなります。
さすが現代でも映画になるほど盛り上がるイベントだけあって、非常によく出来た話です。
思わず信じたくなりますが、上記の流れはいったん忘れて考えてゆきましょう。
いったい【清洲会議】とは、何を話し合う場であったのか?
後継者ではなく「名代」の争い
【清洲会議】とは、何のために開かれたのか。
というと、まだ幼い三法師の名代をめぐる争いでした。
織田信雄と織田信孝――二人の信長の息子のうち、どちらが三法師成人までの名代をつとめるか――そこが焦点だったのです。
この時点で、前述した羽柴秀勝(信長の四男で秀吉の養子)は除外、あくまで二者に絞られていました。
重ねて申し上げますと、【清洲会議】とは、柴田勝家・丹羽長秀・池田恒興・羽柴秀吉の四者ではなく、織田信雄と織田信孝の二者を決めるものでした。
◆清洲会議の本質
織田信雄と織田信孝の名代争い
しかし、現実問題、この兄弟間は力が拮抗していて、話が一向にまとまりません。
そこで柴田勝家・丹羽長秀・池田恒興・羽柴秀吉の四者が割って入り、政務を執ることにします。
具体的には、三法師を守る者を堀秀政と決め、残された織田領を兄弟の納得いくように分配することが会議の内容となったのです。
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しかし、この状況に我慢できなくなったのが信孝でした。
信孝は三法師を安土に戻さず抱え込もうとし、さらには統治を巡って秀吉と折り合いがつかず決裂――その結果、信孝は柴田勝家と結びついてゆきます。
創作上の清洲会議では、最初から信孝と勝家が手を組んでいたように見せますが、実際は逆でした。
こうした創作を排除し、あらためて史実の清洲会議を整理してみるとこうなります。
◆史実の清洲会議
・織田家(信長と信忠)の後継者である三法師の名代を巡る争い
・名代を争っていたのは信長の息子たち織田信雄と織田信孝
・織田信孝と柴田勝家は後に手を組んだ
確かに「秀吉が三法師を抱きかかえて登場した」なんて、いかにも面白い話ですし、その後、秀吉が天下人になることから、この時点で何かリードしたようにも捉えたくなるかもしれません。
しかし、しつこいようですが、史実から逆算した創作であり、この時点で秀吉がリードしたなんてことはありません。
では、その後はどんな風に推移していったのか?
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