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【福島正則】
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49万8千石から4万5千石へ絶望的ダウン
さて、一応、信濃北部の大名として存続を許された福島家。
49万8千石から4万5千石という絶望的な大幅ダウンです。
高井野に移った正則さんは、家督を息子の福島忠勝に譲って隠居・出家し、「高斎」と名乗りました。
当初は長野県須坂市の「寿泉院」で2年ほど暮らしますが、息子の福島忠勝が先立って病死すると、屋敷を高山村へ移転。
寿泉院には現在、高山村の屋敷にあった正門が、福島正則さんの遺命によって移築されています。
引っ越してきて暮らした場所であるということもあるんですが、それ以外にも観音堂に祀られている観音様が秀吉の厄除け観音「豊太閤護持仏」だったことが移築の大きな理由だったようです。
ちなみに、なぜ秀吉の観音様がここにあるのか?
というと須坂藩の初代藩主・堀直重(父は堀直政/“名人久太郎”のあだ名で有名な堀秀政の従兄弟)が【大坂の陣】で徳川秀忠に仕えて手柄を立て、褒美として賜ったためだそうです。
また、移築された門には、福島正則さんの直筆の「河東禅林」の額が掲げられていたのですが、トラックに衝突されてしまい、現在は額の上部がわずかに残っているのみです。
さて、息子の早世にショックを受けた福島正則さんは、魚沼郡の2万5千石を幕府に返上。
そして、寿泉院から新たに高山村に屋敷を構え、現在は「福島正則屋敷跡」として長野県史跡に指定されています。屋敷のサイズは103m×70mの方形館で、東北の隅っこに土塁が現存しています。
私も先日、実際にこの地を訪れましたが、周辺にはリンゴ畑やブドウ畑が広がる静かな地域で、やや坂を登った高地にあるので、西の長野市周辺を見渡すことができ、その奥には北アルプスの山々を望むことができます。実に美しい場所でした!
屋敷跡には江戸時代中期に高井寺が移転され、現在に至っています。
寛永元年(1624年)7月13日、福島正則さんはこの屋敷で病死しました。
享年64。
とても暑い日だったこともあり、遺体が腐敗することを嫌った家臣が火葬を行い、現在も「福島正則荼毘所跡」として伝えられています。
跡地には杉の木が1本植えられて大木となり「傷をつけると血が噴き出す」と地元の方々に言い伝えられ大切にされてきました。
しかし、昭和9年(1934年)の室戸台風で倒壊してしまったため、現在は2代目が植えられ育まれています。
度重なる悲劇も……綱吉時代に旗本復活!
さて、福島家にはまだ悲劇が待っています……。
家臣が火葬したのは、江戸幕府の検死役が到着する前。つまり幕府のオフィシャルなチェックが入る前に、荼毘に付してしまったのです。
そのため再度お咎めを受けてしまい、なんと福島家に残された2万石の領地も没収!
幕府、ちょっとそれはやり過ぎじゃないか!
と私が怒ったところで、歴史が変わるわけではございません。武家諸法度をはじめ、大名への締め付けが厳しくなっていた時代だから仕方ありません。
大名としては改易となった福島家ですが、その後、福島正則さんのもう一人の息子(福島正利)に旧領地から3112石のみが与えられて旗本として復活しました。
良かった良かった、と思ったところで、再びトラジディが……。
福島家の最後の望みだった福島正利は、後継者がないまま寛永14年(1637年)に37歳で死去。同家は、御家断絶となってしまったのです。
福島正則さんと福島正利の親子のお墓は、福島正利が建立した正覚院(東京都港区)に隣り合わせで立っています。
福島家、万事休す…もはやこれまでか……。
イヤイヤ、天は福島家を見捨てませんでした。
福島正則さんの曽孫・福島正勝が天和元年(1681年)、江戸幕府から招かれて5代将軍・徳川綱吉に謁見し、御家再興を許されたのです。
この後、福島家は再び旗本として存続が許されています。さすがお犬様、優しい。
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菩提寺の岩松院に今なお残る遺品の数々
さてさて、福島正則さんが与えられた晩年の領地には、ゆかりの史跡がまだ残されています。
小布施町には、江戸時代の天才絵師・葛飾北斎が89歳の時に描いた天井絵『八方睨鳳凰図』で世界的にも有名な「岩松院」というお寺があります。
また、江戸時代の俳人の小林一茶が「やせ蛙 負けるな一茶 これにあり」と詠んだ池があることでも知られています。
実はこのお寺には、福島正則さんが馬の口を引く家臣一人だけを連れ、屋敷から馬に乗って足繁く通っていたそうです。
福島正則さんは生前にこの岩松院を自身の菩提寺として定め、荼毘の後に遺骨が埋葬されました。埋葬地には霊廟が建立され、現在も大五輪塔が残されています。
また、本堂には福島正則さんの多くの遺品を見学することができます。
福島正則さんの御位牌、信仰した観音像、岩松院に通った時に使用した馬具(鞍くらや鎧あぶみなど)、食器や茶器や絹織物などなど。
お寺の言い伝えによると、福島正則さんの遺言によって岩松院に奉納されたそうです。
本堂内は撮影禁止なので、その目で是非ご覧くださいませ。
また、“暴れ川”で有名だった領内の松川氾濫を防ぐため福島正則さんが築いたという堤防の「大夫千両堤」(福島正則公千両堤)も現代まで受け継がれ、今も街を水害から防いでいます。
ちなみに、大夫というのは福島正則さんの官職名の「左衛門大夫」に由来しています(読み方は「たゆう」「だいぶ」とも)。
福島正則さんに由来する地名だと、伏見城(京都市伏見区)の屋敷跡が「福島太夫」と呼ばれていたり、生誕地のあま市には「正則小学校」があったりしますね。
さてさてさて、今回は特別枠ということで“メジャー武将の福島正則さんの意外な晩年とゆかりの地”をご紹介しました。
あー、旅に出たい!(笑)
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文:れきしクン(長谷川ヨシテル)
◆れきしクンって?
元お笑い芸人。解散後は歴史タレント・作家として数々の番組やイベントで活躍している。
作家名は長谷川ヨシテルとして柏書房やベストセラーズから書籍を販売中。
【著書一覧】
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