福島正則

福島正則/wikipediaより引用

豊臣家 豊臣兄弟

福島正則は秀吉子飼いの武将だったから?徳川政権で喰らった「転封改易」の悲劇

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衝撃!秀次切腹事件

その後も、秀吉のお気に入りの大名として各地を転戦して、大名へとのし上がって行きました。

以下、ザックリ年表をどうぞ!

◆天正12年(1584年)
【小牧・長久手の戦い】
秀吉 vs 織田信雄おだのぶかつ(信長の次男)&徳川家康の連合軍

◆天正13年(1585年)
【四国征伐】
秀吉vs長宗我部元親ちょうそかべもとちか

◆天正15年(1587年)
【九州征伐】
秀吉vs島津義久
⇒伊予(愛媛県)で11万3千石の大名となる。
お城は唐子山からこやまに築かれていた国府城こくぶじょう(今治市)。※今治城が藤堂高虎によって築かれるのは1602年から

◆天正18年(1590年)
【小田原征伐】
秀吉vs北条氏政&北条氏直
⇒織田信雄の軍勢に加わり韮山城にらやまじょう(静岡県伊豆の国市)を包囲して開城

◆文禄元年(1592年)
【文禄の役】
(秀吉による1度目の朝鮮出兵)
⇒五番隊の総大将として長宗我部元親や蜂須賀家政はちすかいえまさなどを率いて活躍

以上のような感じです!

さらに福島正則さんは24万石の大大名となります。

それが文禄4年(1595年)のことなんですが、この年、秀吉の甥で養子となっていた豊臣秀次切腹するという大事件が起きました。

秀吉は実子の鶴松が天正19年(1591年)に亡くなり、豊臣秀次を養子として後継者に指名しました。

しかし、文禄2年(1593年)、実子のおひろい(後の豊臣秀頼)が誕生。後継者となっていた豊臣秀頼との関係が悪化していき、ついに切腹となってしまったのです。

豊臣秀次/wikipediaより引用

切腹の前、豊臣秀次は秀吉との対立を避け、京都を離れて高野山に向かいました。秀吉が母(大政所)の供養のために建立した青巌寺せいがんじ(和歌山県高野町/現・金剛峯寺こんごうぶじ)で剃髪して謹慎したのです。

しかし、秀吉から使者によって命令がもたらされ、同寺で切腹。

この時の使者が、実は福島正則さんでした。そして、この切腹事件の後に、豊臣秀次の領地だった清洲24万石を与えられ、清洲城の城主となったのです。

※秀次切腹事件については「自ら腹を斬った」など諸説あり!

 


三成襲撃事件

故郷の尾張に大大名として凱旋した福島正則さん。秀吉からは「羽柴」の名字や「豊臣」の姓を与えられるなど、紛れもなく秀吉政権の有力大名となりました。

しかし、その秀吉も、慶長3年(1598年)に死去してしまうと、政権内で大きな争いが起きてしまいます。

朝鮮出兵をキッカケに不仲になっていた五奉行・石田三成を政権から追放しようと、福島正則さんらが画策。

慶長4年(1599年)閏3月3日、秀吉政権のキーマン大名だった前田利家が亡くなると、その日の深夜に、福島正則さんは仲間の大名と共に石田三成を襲撃したといいます。

結果、討ち漏らしたものの、石田三成は居城の佐和山城(滋賀県彦根市)で隠居となり、政権からは追放されました。豊臣政権を支えた秀吉子飼いの武将たちによって争いが起き、政権が自壊していくとは、なんとも皮肉です……。

ちなみに、このとき石田三成を襲撃した大名は「七将」と称されることがあります。

賤ヶ岳七本槍の加藤清正加藤嘉明が参加していた他、池田輝政細川忠興浅野幸長あさのよしなが黒田長政など、名だたる若手大名たちがいました。

※襲撃した事実はなく、石田三成を訴訟によって追放したという説もあり!

石田三成/wikipediaより引用

福島正則さんは、秀吉亡き後、秀吉政権の五大老の筆頭だった徳川家康に接近していきます。

石田三成の襲撃事件が起きたその年。徳川家康の姪で養女の満天姫を、自分の後継者である甥・福島正之の正室に迎えるのです。

そして運命の慶長5年(1600年)を迎えました。

関ヶ原の戦い】です。

 


ハイライト!小山評定

福島正則さんをさらに躍進させる合戦になり、その経緯は次のような感じ。

まず五大老の前田利長(利家の子)に謀反のウワサ…

徳川家康が前田家の討伐に動く!

前田利長は戦わずに降伏…

続いて五大老の上杉景勝(謙信の養子)にも謀反のウワサ…

徳川家康は今度は上杉家の討伐に動く!

上杉家の執政の直江兼続が「直江状」で謀反のウワサをぶった斬る! というか「来るなら、来いや」という締めくくり!

徳川家康による「会津征伐」がスタート!

討伐軍が下野しもつけ(栃木県)あたりに集結したあたりで畿内で石田三成らが挙兵の報せ!

小山評定おやまひょうじょう」今後の対応について徳川家康が率いていた大名たちを呼び会議を開く!

小山評定と上杉征伐
上杉征伐と小山評定からの家康vs三成~関ヶ原が始まる直前に何が起きていた?

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この小山評定は、福島正則さんのハイライトシーンの1つかもしれません。

徳川家康「妻子を人質に取られている方もいるから、石田三成らに味方しても恨まぬ。遠慮なく申し出られよ」

福島正則「内府だいふ(家康)殿にお味方いたす!」

こうして秀吉と縁の深い福島正則さんが即答で徳川家康に味方することを表明したため、評定に参加した大名たちは次々に徳川家康の味方になり、いわゆる“東軍”が結成されました。

事前に黒田長政から、会議の内容を知らされていて、すぐに味方を表明するように演出が入っていたとも言われますが、それはまぁ置いておきましょう(笑)。

また、この会議中に、大河ドラマ『功名が辻』の主人公になった山内一豊やまうちかずとよが、当時居城の掛川城(静岡県掛川市)と領地を差し出し、その功績として戦後に土佐(高知県)一国を与えられたという逸話も有名ですね。

山内一豊/wikipediaより引用

その後、福島正則さんは東軍の先陣として西へ進み、8月19日に自らの居城である清洲城に入城。

総大将の徳川家康が、まだ居城の江戸城にいたため、東軍の諸将と清洲城で待機するも、家康からの伝令(村越直吉むらこしなおよし)が「出陣して敵と戦い、味方であることを明らかにせよ」と告げると、「それは尤もだ」として出陣し、西軍の諸城を攻撃し始めます。

 

竹ヶ鼻城から岐阜城へ

福島正則さんは、同僚の池田輝政と先陣を争いつつ、木曽川を渡って美濃みの(岐阜県)に進出!

西軍に与した竹ヶ鼻城たけがはなじょう(岐阜県羽島市)を攻め落としました。

ちなみに、このお城は【小牧長久手の戦い】の時に、秀吉が堤防を築いて水攻めして攻め落としていたりします。市内には一夜堤と呼ばれる秀吉の堤防の跡が残されています。

竹ヶ鼻城の落城は8月22日。
翌23日には、美濃の盟主的存在だった織田秀信の岐阜城に攻め寄せました。

織田秀信とは、本能寺の変後に開かれた清洲会議で、秀吉に擁立された織田信長の孫・三法師さんぽうしです。元服して秀信と名乗り、この時21歳でした。

織田秀信/wikipediaより引用

この【岐阜城の戦い】でも、池田輝政と先陣争いで揉めた結果、福島正則さんの軍勢は七曲道ななまがりみちと呼ばれる大手道から、池田輝政の軍勢は水手道と呼ばれる搦手からめて道から攻め掛かりました。

池田輝政が天正13年(1585年)から5年間、岐阜城の城主を務めて勝手を知っていたこともあり、東軍は瞬く間に本丸まで迫り、池田輝政の説得もあって開城となりました。
こうして、わずか1日で岐阜城は陥落したのです。

峻険な金華山に建つ岐阜城

ちなみに、岐阜城を離れた織田秀信は、城下の浄泉院(現在の円徳寺)で剃髪し、高野山に送られました。

円徳寺は、織田家ゆかりの寺院です。大河ドラマ『麒麟がくる』でも描かれた、天文16年(1547年)【加納口の戦い】で、織田信秀(信長の父)が大敗し、そのとき討ち死にした家臣たちを弔う「織田塚」が築かれています。

高野山での織田秀信は、祖父・信長がかつて攻撃を仕掛けていた因縁から冷遇され、山麓に住み、慶長10年(1605年)にわずか26歳で亡くなっています。病死とも、自害とも伝えられています。

かたや、福島正則さんのようにさらなる出世をする者もいれば、祖父が天下人だったにも関わらず、ちょっとした巡り合わせや油断で滅亡・早世するっていうのは、時代の厳しさを考えさせられますね。

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