北条氏政(左)と豊臣秀吉/wikipediaより引用

豊臣家

なぜ北条は秀吉に滅ぼされたのか|真田や徳川も絡んだ不運の連鎖に追い込まれ

2025/06/30

戦国時代に関東の雄として君臨した北条氏。

武田信玄や上杉謙信あるいは今川義元など、名だたる武将と渡り合いながら、一大勢力を築き上げた――。

東国きっての戦国大名なのに、その最期は呆気ないものと思われるかもしれません。

堅城と名高い小田原城に籠城するも、豊臣秀吉率いる圧倒的な軍勢に包囲され、ついには滅びてしまう。

特に、大河ドラマ『どうする家康』では、余裕綽々の秀吉に小馬鹿にされ、まるで取るに足らない戦国大名のようにも見えてしまいましたが、実際のところどうだったのか?

北条は、氏政や氏直が暗愚だから滅ぼされたのか?

北条氏政(左)と北条氏直/wikipediaより引用

他に生き残るための道はなかったのか?

その過程を振り返ってみましょう。

📚 戦国時代|武将・合戦・FAQをまとめた総合ガイド

 

北条、今川、そして徳川の関係

北条氏は、隣国の今川氏と、時に争いが起きながらも、実際は数代にわたって姻戚関係を結んでおり、強い結びつきがありました。

例えば今川氏真の正室である早川殿もそうです。

彼女は北条氏康の娘で、北条氏政の姉妹にあたり、氏真もこの妻の実家を頼りにしていました。

早川殿/wikipediaより引用

しかし今川家は、桶狭間の戦いで義元を失ったことをキッカケに没落が始まり、ついには滅亡。

代わって台頭してきたのが徳川家康です。

家康は娘の督を北条氏直に嫁がせます。

督の母である西郡局(にしのこおりのつぼね)は『どうする家康』では「お葉」という名で登場していましたね。

なぜ、この婚姻が実現したのか?

キッカケは、武田家滅亡後の旧領を巡り、徳川・上杉・北条・真田で奪い合った【天正壬午の乱】でした。

天正壬午の乱
天正壬午の乱|滅亡後の武田領を巡り 徳川・上杉・北条・真田が激突した大戦乱

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緩衝材の武田が滅んでしまった

天正10年(1582年)3月、北条や徳川、あるいは今川とも因縁の深かった武田家が、織田徳川連合軍により滅ぼされました。

そしてその直後の6月には、織田信長が本能寺の変に斃れ、旧武田エリアは混沌が激化。

緩衝地帯がなくなった北条と徳川は衝突を繰り返し、一進一退の攻防が続きます。

この事態を複雑にしたのが、信濃の国衆である真田氏です。

従属先であった武田氏が滅び、野に解き放たれた真田昌幸は、当初は北条につきながら徳川へなびくなど、その去就を二転三転させ、北条氏を大いに失望させます。

真田昌幸/wikipediaより引用

最終的に北条と徳川は、織田信雄・織田信孝兄弟の勧めもあって和議を結ぶことになりました。

その証として成立したのが北条氏直と督の婚礼。

北条としては、徳川といったん和議をすることで背後の佐竹に力を割くことができ、一方の徳川は、別の敵と腰を据えて向き合うことができました。

柴田勝家を破り、破竹の勢いで突き進む羽柴秀吉――かくして両者は【小牧・長久手の戦い】で激突することになるのです。

 

北条と徳川の同盟関係

注目したいのが、この時点での外交です。

家康は北条と、秀吉は佐竹義重と手を結んでいました。

佐竹義重イメージ(絵・富永商太)

秀吉は既に天正11年(1583年)あたりから、北条の背後を衝く佐竹に接近していたと考えられます。

もしもこのまま、家康と秀吉が対峙を続けたら、また別の展開があったことでしょう。

あるいは北条がもっと積極的に秀吉へ接触できていたら、後の東国勢力図は大きく変わっていたかもしれません。

しかし、小牧・長久手の戦いが中途半端なカタチで終わり、上杉、佐竹、宇都宮といった諸勢力が秀吉との仲を深める一方、北条の動きは鈍いものでした。

そんなタイミングで、事態は大きく動きます。

【天正大地震】の影響もあり、家康とこれ以上の争いを避けたい秀吉が、天正14年(1586年)、妹の旭を家康の正室として嫁がせ、さらには母の大政所まで遣わしたのです。

大政所(秀吉母・なか)/wikipediaより引用

家康側も於義丸を秀吉のもとへ人質として差し出し、両者の間で和議が成立。

この事態に際して、北条が何もしていなかったわけではありません。

もしも家康が討たれたらどうするか?

そう考え、何かあれば徳川方へ加勢するよう準備を整えていました。

 

秀吉との交渉をはかる

家康も秀吉と、北条についての話し合いを進めました。

佐竹や宇都宮は秀吉と直接交渉していましたが、北条は徳川というワンクッション挟んでの交渉となります。

北条としては小田原城はじめ、防備を固めるしかありません。

結果がどう転ぶかわからぬからには、備えを怠るわけにもいかず、天正15年(1587年)までは戦の準備が着々と進んでいました。

しかし、天正16年(1587年)ともなると、この準備が一旦止まります。

2月には、秀吉の侍医である施薬院全宗に、北条氏政からの書状が届き、これに対して上洛を待つ旨が北条側に返されると、戦闘は回避されたかのように思えました。

北条は陸奥の伊達政宗とも連携しつつ、京都との交渉を進めていたのです。

伊達政宗/wikipediaより引用

 


最悪の展開となった沼田問題

天正17年(1588年)2月には、北条家臣であり、家中きっての文化人でもある板部岡江雪斎が上洛を果たしました。

交渉術に長け、茶道や詩歌にも詳しい人物。

上洛して交渉にあたるとなると、こうした文化人でなければ恥をかきます。

その話し合いで最も大きな事案となったのが【沼田問題】でした。

沼田は上野国にある真田領であり、これを北条に譲る譲らないという所領問題があり、結果、次のように決められました。

・沼田城を含めた3分の2は北条領とする

・残る3分の1は真田領とする

・真田から北条への割譲分のうち、3分の2は家康が真田昌幸にあてがう

・沼田領の分割は、北条氏の上洛を要件とする

このような裁定がくだされ、あとは北条氏が上洛すれば問題は解決するかのように思われました。

秀吉にも狙いはあります。

豊臣秀吉/wikipediaより引用

天正17年(1588年)9月、秀吉に従属した諸大名に、妻子上洛を命じているのです。

このころの秀吉は、ことあるごとに権限を集中し、天下統一へ着々と歩んでいたところ。

北条も上洛すれば、東国に対する示しがつけられる。

そんな緊迫した11月、大問題が勃発しました。

北条が真田の名胡桃城を攻め取ってしまったのです。渦中の沼田領にある城であり、あまりに危険なターニングポイントと言えます。

ここで北条氏政が急遽上洛でもすれば、まだ交渉の余地はあったかもしれません。

しかし、実現には至りませんでした。

 

秀吉にメリットだらけの小田原合戦

北条が名胡桃城を強奪し、もはや【小田原合戦】は避けられない。

秀吉側からすると、この戦いは大いにメリットがあります。

関東へ馳せ参じるかどうか? 奥羽(東北)の諸大名に選択を突きつけ、豊臣大名になるかどうかを測ることができるのです。

さらにこの戦いは、天下人としてのパフォーマンスも兼ねていました。

淀殿ら女性を引き連れ、温泉地で派手に遊ぶ――その様は、まさしく天下を手にした華麗さに満ちていて、実際、秀吉の圧倒的な軍事力を前に、ついに北条氏は敗れてしまいます。

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結果、北条氏政と北条氏照は切腹。

北条氏直は高野山へ追放されました。

氏直と督は離縁し、家康のとりなしがあって赦免されたのですが、その約1年後の天正19年(1591年)11月、疱瘡により死去してしまいます。享年30。

いかがでしょう?

こうして見てみると、北条氏政と氏直親子は、暗愚というよりも運が悪かったともいえるのではないでしょうか。

あまりに不運な要素が重なっていました。

・家康に頼り切らず、もっと早い段階から自力で秀吉と交渉をしていれば

・北条氏政の上洛が実現していれば

・真田昌幸という災厄(真田が徳川家康によって征伐されるなり、おとなしく従属していれば)

・北条氏直が長生きしていれば

「タラレバ」ばかりになり、それが回避できなかったから滅びたんでしょ……とはその通りかもしれません。

しかし結果的に天下人となった徳川家康にしても【天正大地震】の影響があって、秀吉との決戦を回避できたともいえます。

徳川家康/wikipediaより引用

もし次に秀吉vs家康の全面対決が起きていたら、小牧・長久手の戦いのときより不利な情勢に追い込まれていたのではないでしょうか。

北条氏と似たような状況にあった伊達政宗だって、幸運を重ねてギリギリのところで滅亡を回避しています。

 


なぜ氏政は汁かけ飯を食べるのか?

近年の大河ドラマで、北条氏政に欠かせないエピソードがあります。

「汁かけ飯」です。

北条氏政には「父の北条氏康に似ないバカ殿」という評価がつきまとい、その逸話としてこんなものが挙げられるのです。

ある日、氏政が領内を見回っていたときのことでした。

領民が麦を取り入れ、それを眺めていた氏政はこう言いました。

「よし、あの麦を昼飯としようではないか」

「えっ……」

家臣は絶句。脱穀して手間暇かけて食べられるのに……と驚いたと言い、もうひとつ有名なのが「汁かけ飯」です。

氏政が食事中、ご飯に汁をかけた。一度では足りず、もう一度かけた。

それを見た父の氏康が「こいつは毎日飯を食っているのに、ちょうどいい量もわからんのか」と呆れたという話です。

北条氏康/wikipediaより引用

これを逆手に取ったのが大河ドラマ『真田丸』でした。

先を急がず、食べる分だけ汁をかける――それが自分の食べ方であると自説を披露したのです。

汁かけ飯のエピソードを逆手に取った描写ですね。

そもそも、こうした逸話は「氏政がバカ殿だから滅びた」という逆算式で、後世になってから面白おかしく作られたものと考えられます。

仙台藩としては名君ということにしたい。そんな伊達政宗なのに無茶苦茶な逸話が今も数多く伝わっているのは、捏造する動機が考えにくく、逆に信ぴょう性が高い――それと北条氏政は逆ですね。

そもそも「汁かけ飯」とは何なのか?

北条だけが食べているのか、というと、そんなことはありません。

当時の料理としては定番ですし、考えてみればお茶漬けや水飯という食べ方は今でもあります。カレーライスだって広義でいえば汁かけ飯ともいえる。

液状のものを米飯にかけるのは、特別でもなんでもなく、ありふれた食べ方でしょう。

飯にかける汁の量程度で人間の器量が測れるわけでもありません。

『真田丸』のように、それを逆手に取る描写はさておき、「汁かけ飯」をシグネチャーアイテムのようにされては、ただ単に氏政への侮辱のようにも思えます。

北条氏は愚かではなく、不運であった。その要素の一つとして、真田昌幸と関わったことがある。

そう描いた『真田丸』の描写が良心的だったのではないでしょうか。

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【参考文献】
渡邉大門編『秀吉襲来』(→amazon
小和田哲男『秀吉の天下統一戦争』(→amazon
笠谷和比古『関ヶ原合戦と大坂の陣』(→amazon

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小檜山青

東洋史専攻。歴史系のドラマ、映画は昔から好きで鑑賞本数が多い方と自認。最近は華流ドラマが気になっており、武侠ものが特に好き。 コーエーテクモゲース『信長の野望 大志』カレンダー、『三国志14』アートブック、2024年度版『中国時代劇で学ぶ中国の歴史』(キネマ旬報社)『覆流年』紹介記事執筆等。

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