武田信玄や上杉謙信あるいは今川義元など、名だたる武将と渡り合いながら、一大勢力を築き上げた――。
東国きっての戦国大名なのに、その最期は呆気ないものと思われるかもしれません。
堅城と名高い小田原城に籠城するも、豊臣秀吉率いる圧倒的な軍勢に包囲され、ついには滅びてしまう。
特に、大河ドラマ『どうする家康』では、余裕綽々の秀吉に小馬鹿にされ、まるで取るに足らない戦国大名のようにも見えてしまいますが、実際のところどうだったのか?
北条は、氏政や氏直が暗愚だから滅ぼされたのか?
他に生き残るための道はなかったのか?
その過程を振り返ってみましょう。
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北条、今川、そして徳川の関係
大河ドラマ『どうする家康』では、北条氏の出番があまりに遅く、それまでの状況がわかりません。
特に、ドラマ序盤で存在感を見せていた今川氏とは、時に争いが起きながらも、実際は数代にわたって姻戚関係を結んでおり、強い結びつきがありました。
例えば今川氏真の正室である早川殿(ドラマでは糸)もそうです。
彼女は北条氏康の娘で、北条氏政の姉妹にあたり、氏真もこの妻の実家を頼りにしていました。
※以下は早川殿の生涯まとめ記事となります
北条から今川へ嫁いだお姫様・早川殿~今川滅亡後はどうしていたのか
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しかし今川家は、桶狭間の戦いで義元を失ったことをキッカケに没落が始まり、ついには滅亡。
代わって台頭してきたのが徳川家康です。
家康は娘の督を北条氏直に嫁がせます。
督の母である西郡局(にしのこおりのつぼね)は『どうする家康』では「お葉」という名で登場しています。
なぜ、この婚姻が実現したのか?
キッカケは、武田家滅亡後の旧領を巡り、徳川・上杉・北条・真田で奪い合った【天正壬午の乱】でした。
武田滅亡後の領地を奪い合う「天正壬午の乱」徳川・上杉・北条に真田を交えた大戦乱
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緩衝材の武田が滅んでしまった
天正10年(1582年)3月、北条や徳川、あるいは今川とも因縁の深かった武田家が、織田徳川連合軍により滅ぼされました。
そしてその直後の6月には、織田信長が本能寺の変に斃れ、旧武田エリアは混沌が激化。
緩衝地帯がなくなった北条と徳川は衝突を繰り返し、一進一退の攻防が続きます。
この事態を複雑にしたのが、信濃の国衆である真田氏です。
従属先であった武田氏が滅び、野に解き放たれた真田昌幸は、当初は北条につきながら徳川へなびくなど右往左往し、北条氏を大いに失望させます。
最終的に北条と徳川は、織田信雄・信孝兄弟の勧めもあって和議を結ぶことになりました。
その証として成立したのが北条氏直と督の婚礼です。
北条としては、徳川といったん和議をすることで背後の佐竹に力を割くことができ、一方の徳川は、別の敵と腰を据えて向き合うことができました。
柴田勝家を破り、破竹の勢いで突き進む羽柴秀吉――かくして両者は【小牧・長久手の戦い】で激突することになります。
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