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【蜂須賀正勝】
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安土城本丸の石垣作事奉行
天正二年(1574年)、織田軍は長島一向一揆の討伐に出向きました。
このときの長島攻めは、信長にとって三回目であり、織田家の兵力を結集した総攻め。
秀吉はこのころ北近江に残って越前方面を牽制する役割であり、弟の豊臣秀長と蜂須賀正勝が長島攻めに駆り出されています。
信長からみてもこの二人が評価に値し、重要な立ち位置になっていたことがわかりますね。
終わった後の褒美も、信長から銭で渡されています。
秀吉だけでなく信長からの信頼も申し分なかったのでしょう。天正四年(1576年)には安土城本丸の石垣作事奉行を務めるほどでした。
多方面に同時展開している織田軍は、何か役目を与えられても、同時に他の合戦に駆り出されることも珍しくなく、正勝も安土城の奉行を担いながら、石山本願寺攻撃のために大坂へも出陣しています。
この戦いでもやはり信長に戦功を認められました。
正勝については戦も普請も得意なイメージがありますが、実際、信長にしても「使い勝手のいい奴」と思われていたのでしょう。
安土城築城における総奉行は丹羽長秀なので、長秀も正勝を評価していたかもしれません。
人柄にしても、誰かと揉めたという話も無く、性格が温厚だったことも彷彿とさせます。
まぁ、そうでないと、いろんな場所でスムーズに仕事を進められないですよね。
そして天正五年(1577年)秋、秀吉が中国攻めに取り掛かることになると、正勝もまたこれに従いました。
特に、天正六年(1578年)から年をまたいで天正八年(1579年)1月にかけて取り掛かった三木城の攻略では、功を認められてて城を与えられたり、信長から別途加増されたり。
この後から豊臣秀長(羽柴秀長)の下で働くことが多くなり、信長に直接報告することも増えていきました。
この時期の羽柴軍は、大ざっぱにいうと秀吉が山陽方面、秀長が山陰方面を担当していたため、戦力を分けたようです。
秀吉の元には竹中重治(半兵衛)もいたので、正勝を秀長につけてサポートさせようとしたのかもしれません。
また、息子・家政の実地訓練も兼ねていたと思われます。
天正九年(1581年)には鳥取城攻めに加わり、続く天正十年(1582年)には備中高松城の水攻めにおける堤設置の奉行を務めました。
ざっくりまとめると、
秀吉が信長の家臣だった頃の大きな合戦にはほとんど正勝がいた
ということになりますね。
本能寺の変が勃発
天正10年(1582年)6月、本能寺の変が勃発。
光秀を討った秀吉はその後、織田家内での権力闘争に突き進み、蜂須賀正勝もその配下として働き続けます。
柴田勝家との決戦【賤ヶ岳の戦い】にも参加して勝利を飾り、大坂城の縄張りを指揮し……加増を受けているのに席が温まる暇もないほどの働きようです。
迎えた天正十二年(1584年)の大戦である【小牧・長久手の戦い】では、大坂城の留守を任されていました。
秀吉
vs
家康(+織田信雄)
として知られるこの戦い。
主に畿内や東海地方で様々な勢力が羽柴と徳川に分かれて対峙していましたが、実際はそれだけでなく、もっと広い範囲で勢力争いが繰り広げられていました。
蜂須賀正勝が大坂城を任されたのが、当然、そこが非常に重要な拠点だったから。
特に、南に位置する紀伊の雑賀衆などが徳川方に味方していて、実際に、雑賀衆と根来衆が大坂に迫る勢いだったところ、正勝が出陣して事なきを得ています。
翌天正十三年(1585年)には、その根来衆と雑賀衆へ攻めかかり、さらに長宗我部氏攻略にも参加しました。
働き通しで休む間もない正勝。
実はこの頃すでに病に蝕まれ始めていたようですが、長宗我部氏との取次を務めていた正勝は四国へ顔を出さないわけにはいきません。
まずは当時の四国の状況を簡単にまとめておきましょう。
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