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【蜂須賀正勝の生涯】
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四国征伐
長宗我部元親は、信長が本州制圧に尽力していた頃、自力で四国の統一を進めていました。
信長とは事前に交渉し、四国の支配を認められたいたからです。
しかし、それが終わりかけたところで信長から突然、約束を反故にされてしまいます。
「土佐一国で満足しろ」
突然、そんな風に言われて「はい、そうですか」と呑めるはずはなく、織田軍とは一触即発の事態に陥ります。

長宗我部元親/wikipediaより引用
そこで織田軍は、織田信孝(信長の三男)や丹羽長秀らを中心に、四国への派遣軍を準備。
実際に攻められる前に、長宗我部は渋々ながら信長の意向を受け容れて合戦は回避され、織田信孝たちも戦うためではなく一種の軍事示威行動だった――そんな見方もありますが、結果、それは有耶無耶になります。
【本能寺の変】が起きたからです。
そしてその後の織田家における権力争いに買った秀吉が、今度は自らが天下人を目指すべく四国へ横槍を入れる……そんな大切な場面で豊臣秀長らと同様に頼りにされたのが蜂須賀正勝でした。
四国の長宗我部も長年の戦で疲弊しています。
正面切って秀吉軍と対峙するのは危険な選択ですが、かと言って成り上がりでよそ者の秀吉にスンナリと従うわけにもいかない。
秀吉にしても無駄な損耗は避けたい。
しかし、長宗我部元親は小牧・長久手の戦いでも織田信勝や徳川家康らを支持していた経緯があり、そうは寛大には振る舞えません。
そこで「伊予と讃岐を渡せば、土佐と阿波の領有は認める」という条件を提示したところ、元親は「伊予一国の返上ならば応じる」と粘りました。
結果、どちらも譲らず、天正13年(1585年)6月に開戦となったのです。
蜂須賀正勝からすると、交渉をまとめられなかった負い目を感じたかもしれません。
正勝は嫡子・家政と共に出陣し、総大将の豊臣秀長、あるいは豊臣秀次(三好秀次)らの軍とは別行動を取りました。
両軍が無用な流血をして疲弊する前に長宗我部との交渉を進める狙いもあります。
正勝の軍には、他にも黒田官兵衛(黒田孝高)や仙石秀久などが参戦。
さらには毛利軍などを含めると、総勢12~13万ともされる大軍に膨れ上がっていました。
◆秀吉の四国征伐軍
・豊臣秀長軍 3万
・豊臣秀次軍 3万
・蜂須賀正勝軍 2万3千
・小早川隆景軍 4万
迎え撃つ長宗我部にしても数万の動員力があったと想定されますが、四方八方から大軍に寄せられ、守備の兵力が分散してしまうと、どうしても守勢に回らざるを得ません。
そしで次々に城が落とされ、秀吉に逆らうことの無謀さを元親も悟り、同年7月に降伏となり、四国は無事に片が付きました。
阿波18万石を息子に譲り 自分は秀吉のそばに
蜂須賀正勝は引き続き長宗我部氏との取次を務めています。
しかし、滞陣中から無理をしていたようで、帰還後は床についてしまいました。
秀吉からは、恩賞として阿波国丸ごと18万石を与えられますが、既に「長距離移動が耐え難かったこと」と「秀吉の側を離れがたい」という理由で正勝自身は辞退しています。
代わりに、嫡子の蜂須賀家政へ阿波が譲られ、正勝には養生費として摂津に5000石が与えられました。

蜂須賀家政/wikipediaより引用
イヤな見方をすると、たぶん病気が8割ぐらいであり、秀吉と「離れがたい」というのは2割ぐらいの理由でしょうか。
明日をもしれぬ病人が領地を貰ったところで大した意味はありません。
それよりも医者や薬を手配するとか、自ら見舞いに行くとか、秀吉には他にも方法があったでしょう。
実は秀吉の養子・御次秀勝(次秀勝)もこの年末(西暦的には翌年の1月)に病死するのですが、彼に対しても秀吉は亡くなる半年前=秀吉の関白就任のタイミングで官位を昇進させています。
豊臣家の格を上げる目的もあったでしょうし、それはそれで喜ばれるかもしれませんが、何かがズレているようにも見えてしまいますね。
その思いが届いたのか届かなかったのか。
正勝は天正十四年(1586年)5月22日に、大坂の邸で亡くなりました。
享年61。
秀吉が関白になったのは天正十三年(1585年)7月ですから、まだまだ正勝には働いてもらいたかったことでしょう。
いずれにせよ、蜂須賀正勝が、豊臣秀長と千利休に並ぶ豊臣政の秀吉にはとって欠かせない一柱だったのではないかと思われます。
正勝がもう少し長生きしていたら……
最後に、蜂須賀正勝が亡くなった前後の状況をまとめておきましょう。
秀吉身辺の人々の没年に着目しながら進めます。
◆天正十三年(1585年)
12月 養子の御次秀勝が死去
◆天正十四年(1586年)
5月 蜂須賀正勝が死去
7月 九州征伐開始
9月 秀吉が豊臣姓を賜る
◆天正十八年(1590年)
2月~7月 小田原征伐
◆天正十九年(1591年)
1月 弟の豊臣秀長が死去
2月 千利休が切腹
◆天正二十年(1592年)
4月 朝鮮出兵の開始(文禄の役)
7月 母の大政所が死去
9月 養子の小吉秀勝が死去
◆文禄二年(1593年)
8月 豊臣秀頼の誕生
◆文禄四年(1595年)
7月 豊臣秀次が切腹
◆慶長二年(1597年)
2月 再度の朝鮮出兵(慶長の役)
◆慶長三年(1598年)
8月 豊臣秀吉が死去
こうしてみると、1580年代半ば以降、秀吉が若い頃から親しかった家臣や家族の多くが順々に亡くなっていますね。
正室・ねねなどはもちろん健在ですが、譜代の家臣がいない秀吉にとって、正勝は最古参の武将。
かつ頼れる年長者でしたから、早くに喪ったのはかなりの痛手だったのではないでしょうか。
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参考文献
- 『国史大辞典』(吉川弘文館, 全15巻17冊, 1979–1997年刊)
出版社: 吉川弘文館/JapanKnowledge(国史大辞典 Web版案内) - 菊地浩之『豊臣家臣団の系図(角川新書)』(KADOKAWA, 2019年11月, ISBN-13: 978-4-04-082325-6)
出版社: KADOKAWA(公式商品ページ) |
Amazon: 商品ページ - 谷口克広『織田信長合戦全録 ― 桶狭間から本能寺まで(中公新書 1625)』(中央公論新社, 2002年1月, ISBN-13: 978-4-12-101625-6)
出版社: 中央公論新社(公式商品ページ) |
Amazon: 商品ページ - 谷口克広『信長軍の司令官 ― 部将たちの出世競争(中公新書 1782)』(中央公論新社, 2005年1月, ISBN-13: 978-4-12-101782-6)
出版社: 中央公論新社(電子版ページ/底本:中公新書1782) |
Amazon: 商品ページ - 小和田哲男『戦国武将の手紙を読む ― 浮かびあがる人間模様(中公新書 2084)』(中央公論新社, 2010年11月, ISBN-13: 978-4-12-102084-0)
出版社: 中央公論新社(公式商品ページ) |
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出版社: 戎光祥出版(公式商品ページ) |
Amazon: 商品ページ






