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【サン・フェリペ号事件と日本二十六聖人】
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三成が京都周辺で捕縛 二十六聖人のうち二十四人が……
秀吉はサン・フェリペ号の荷物を押収すると、すぐさま宣教師の捕縛を命じました。
しかも、その対象は、船に乗っていた者たちだけでなく京都や大坂まで拡大。
石田三成が実行し、このとき捕らえられたのが”二十六聖人”のうちの二十四人です。
日本人の信者は親子または兄弟など血縁者が多く、またスペイン人やポルトガル人、メキシコ人の修道会員も含まれていました。
彼らは京都で左耳を切り落とされた上で市中引き回し(さらし者)にされ、長崎で処刑されることになります。
なぜわざわざ長崎まで行かせたのか?
というと、当時の領主だった大村純忠という人が日本初のキリシタン大名になっており、長崎の地をイエズス会(ザビエルが設立した布教グループ)に寄進していたからです。
見せしめにはもってこいの土地だというわけですね。
「ゴルゴダの丘に似ている」
ちなみに残りの二人は、道中、彼らの世話役になった日本人の宣教師達でした。
内訳はフランシスコ会員が6名、日本人のイエズス会修道士が3名、日本人信徒17名。
彼らのいずれも信仰のために命を奪われることを拒まず、刑場となった西坂の丘について「イエス=キリストが処刑されたゴルゴタの丘に似ている」として喜んだそうです。
こうして彼らは磔刑に処されました。
この処刑法は、刑を執行するほうもシンドイのですが、まぁ、何というか……エグイ処刑法の一つです。
西洋と東洋では、やり方が違うので直接の死因も異なるようです。
できるだけグロい表現を避けて説明しますと、西洋式だと窒息死、東洋式だと失血死を起こすようなやり方というのが正しいでしょうか。
詳細が伝わっていなかったのか。
そういう細かいことを気にしないのか。
ルイス・フロイスなど処刑を免れた宣教師達によって、殉教者達の存在は国内よりもヨーロッパで広く知られることになりました。
そして265年後の文久元年(1862年)、ときの教皇・ピウス9世によって列聖され、聖人として扱われるようになって現在に至ります。
ついでですので、この「列聖」と、その前段階である「列福」を確認しておきましょう。
列聖された“聖人” 列福された“福者”
どちらも「(キリスト教的な意味で)素晴らしい行いをした」とみなされる人が受けるもので、列聖された人を”聖人”、列福された人を”福者”といいます。
当人が亡くなった後に行跡が調査され、何十年何百年もかけて審査されるため、後世の人間が
「昔々、(キリスト教的な意味で)こういう素晴らしい人がいたんですよ」
と語り継ぐための制度というのが正しいような気がします。
亡くなった直後だと、世間から「いやいや、そいつはこんな悪いこともしてますよ!」という意見もたまに出てくるんだそうです。
なのでマザー・テレサやヨハネ・パウロ2世(先々代の教皇)のように、誰の目からも明らかに「素晴らしい」という場合はかなり短縮されるみたいですね。
通常はジャンヌ・ダルクのように死後何百年も経ってから聖人になるケースのほうが多い。
多分この二人は聖人として認められるのももっと早いでしょう。
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長月 七紀・記
【参考】
平川新『戦国日本と大航海時代 - 秀吉・家康・政宗の外交戦略』(→amazon)
渡邊大門『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』(→amazon)
日本大百科全書
日本二十六聖人/Wikipedia