生駒親正

生駒親正/wikipediaより引用

豊臣家

生駒親正の生涯|信長に軽視され秀吉には重用され 豊臣三中老へ大出世

2025/02/12

慶長8年(1603年)2月13日は生駒親正の命日です。

織田信長と関係が深いとされながら織田政権では大して重んじられず。

しかし秀吉には気に入られ、豊臣政権では【三中老】と呼ばれるほどに出世を果たす。

それでもなお大半の方にピンと来て貰えないのは、何と言っても地味な存在だからでしょう。

いったい生駒親正とはどんな戦国武将で、どんな生涯を送ったのか?

生駒親正/wikipediaより引用

実は最終的に17万石の大名ともなった、その生涯を振り返ってみましょう。

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信長と親族の可能性は?

生駒親正は大永六年(1526年)、美濃の土田という土地に生まれました。

血筋としては信長の実母である土田御前や、信長の側室とも囁かれる生駒氏の縁者だという説があります。

しかし実際は、織田氏の主流である岩倉織田氏(織田伊勢守家)や清洲織田氏(織田大和守家)に近い立場でした。

信長がこの二つを滅ぼして自分の家である勝幡織田氏(織田弾正忠家)を主流にしたのですが、それは親正が30代になってからの話。

織田信長/wikipediaより引用

こうした経緯もあってなのか。生駒親正は信長に仕えるのが遅くなりました。

下剋上はよそのことなら「ふーん」で済む話ですが、自分の主筋がされた側となると、気分が良くありませんもんね。

なんだかんだで織田家に仕えたのは永禄九年(1566年)のことでした。

親交のあった蜂須賀正勝のツテだったそうで、正勝が秀吉に親正を紹介し、秀吉が信長に仲介したのだとか。

蜂須賀正勝

豊臣秀吉

織田信長

という流れですね。

蜂須賀正勝/wikipediaより引用

 


信長時代の知行はわずか1000石のみ

生駒親正が織田家に仕えた時期は、悪くはないタイミングでした。

というのも信長にしても、有力な縁者が喉から手が出るほど欲しい状況だったからです。

当時の織田家親族の状況をざっくりまとめると、以下の通り。

◆父方の叔父(父・信秀の弟)

→討死や病死(突然死)や出奔でアテにしようがない

◆信長の兄弟

→庶兄の信広はいるが、長弟・信勝は既に粛清済み、その下の弟たちは若すぎて心もとない

◆舅の斎藤道三

→長良川で既に討死

斎藤道三/wikipediaより引用

こんな感じで、非常に立場が脆い。

となると、近しい立場であるはずの親正は願ったり叶ったりだったはずなのですが……なぜか信長には厚遇されていません。

あくまで秀吉の寄騎(与力)として扱われ、1000石しか与えられなかったのです。

理由を考えてみますと……。

実際は、母方と信長の関係は希薄だったか、あるいは何の縁もなかったか。

親正がアピールしなかったのか。

そもそも当人の能力が劣っていると信長に判断されたのか。

理由は不明ながら、信長時代の親正はそれ以上出世することはありませんでした。

 

秀吉に認められ国持ち大名へ

信長からは特に目をかけられた形跡のない生駒親正。

秀吉の寄騎としては忠実に働いていたようです。

長篠の戦いや雑賀討伐などに参戦し、天正10年(1582年)6月【本能寺の変】が起きてからも、山崎の戦いなどをはじめ秀吉に従っています。

信長の親族として厚遇されていたら、本能寺の変前後で明智方に狙われていたかもしれない――そう考えると秀吉のもとにいて良かったですよね。

豊臣秀吉/wikipediaより引用

そんな秀吉も、間近で見ていた親正には一定の評価を与えていたのでしょう。

天正十三年(1585年)には近江高島2万石と従五位下・雅楽頭の官位を与えます。

そして翌天正十四年(1586年)には伊勢神戸で4万石、さらには播磨赤穂へ転封の上に加増で6万石となり、どんどん出世していきました。

また、天正十五年(1587年)、仙石秀久が九州征伐の先陣で味方に大損害を出した上に逃亡した罪を問われて改易になると、秀久の領地だった讃岐が親正に与えられ、一気に17万石の国持ち大名となるのです。

当時の讃岐には本拠にできるような城がなかったため、天正十六年(1588年)から高松城の普請を始め、2年後に完成させています。

この高松城がなかなか面白いのです。

 

まるで秘密基地な高松城

高松城は籠城戦を見越した設計になっていて、当時は船が直接城内へ入れるようになっていたともされます。

城の縄張りが一目瞭然になる空撮写真を見ると、それも納得。

高松城空撮

パッと見、完全に船を意識した作りですよね。

瀬戸内海に面した高松城は西国から上方への入口付近にあり、海上へ睨みを利かせるためには、船の機動性を重要視した城造りになって当然とも言える。

海防上の理由から、船と城を連携させない手はないですよね。

 

高松城の着見櫓と続櫓と水手御門

高松城内堀

それにしても……こんなウルトラ警備隊とかサンダーバードのような世界観の城をいったい設計したのか?

というと生駒親正ではなく、黒田官兵衛(孝高)や藤堂高虎、細川忠興など、諸説あります。

いずれも城造り名人として知られた武将ばかりですよね。

そりゃカッコよくなるわけだ。

と、思いきや……。

高松城は、江戸時代にかなり大規模な改修がなされた上、戦時中に空襲の被害も受け、さらに周辺の近代化に伴って工事されたといった経緯をたどったため、残念ながら親正時代の遺構はほぼうかがえなくなっています。

復元模型を見ると、

高松城の復元模型

まず海城で間違いないと思うんですけどね。

市民や市議会によって天守の復元計画は立てられており、天守台の復元は終わっているとのこと。

◆玉藻公園公式サイト(→link

◆高松城の復元を進める市民の会(→link

 


三中老となるも無事に関ヶ原を乗り切った

移封後の生駒親正は、変わらず秀吉から信頼されていました。

文禄元年(1592年)の【文禄の役】では先陣として渡海。

同年、堀尾吉晴と中村一氏と共に【三中老】へ任じられたともされます。

堀尾吉晴(左)と中村一氏/wikipediaより引用

当時、三中老という役職名は存在していなかったともされますが、この地味めキャラの三人が豊臣政権の中核にいたことは間違いないでしょう。

というわけで親正は秀吉に大きく取り上げられた大恩があるわけですが、関ヶ原の戦いではそうとは動いていません。

嘘か真か、当人は体調を崩していたとされます。

むろん完全無視とはいかないので、嫡孫の生駒正俊や家臣の萱生大膳らを西軍として丹波へ向かわせ、嫡子の生駒一正は東軍と、苦渋の決断がくだされました。

幸いにして一正の働きが認められたか、あるいは親正自ら隠居したのが家康に殊勝な心がけだと受け取られたか、慶長六年(1601年)5月に讃岐17万国を安堵されています。

そして親正は、慶長八年(1603年)2月13日に高松で死去。

享年78でした(『寛政重修諸家譜』の生没年を元に計算)。

親正は猛将でもなく、吏僚としても目立つタイプではありません。

しかし「激動の時代に真面目さで生き抜いた」と見ると、現代人にとっては身近でもあり、お手本になる人物なのかもしれません。

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【参考】
菊地浩之『豊臣家臣団の系図』(→amazon
谷口克広『織田信長合戦全録―桶狭間から本能寺まで (中公新書)』(→amazon
谷口克広『信長軍の司令官: 部将たちの出世競争 (中公新書 1782)』(→amazon
国史大辞典
日本人銘大辞典
世界大百科事典

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長月七紀

2013年から歴史ライターとして活動中。 好きな時代は平安~江戸。 「とりあえずざっくりから始めよう」がモットーのゆるライターです。 武将ジャパンでは『その日、歴史が動いた』『日本史オモシロ参考書』『信長公記』などを担当。 最近は「地味な歴史人ほど現代人の参考になるのでは?」と思いながらネタを発掘しています。

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