中国大返し

絵・富永商太

豊臣家 豊臣兄弟

中国大返しの全貌|秀吉による伝説的な進軍 実際は普通の行軍だった?

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2万の兵は一体どこから?

他に問題になりそうな点としては、以下の2点でしょうか。

・雨の中ではまともに野営がしにくい→睡眠不足

・人馬の糞尿処理

あるいは、3万から2万に減った兵数にカギがあるかもしれません。

実際に追いついて来られた者はもっと少なく、足りない分は道中や戦場付近など、要所要所で徴発した可能性もあるのでは?

山崎の戦いで敗れた明智光秀は、坂本城まで戻る途中、小栗栖の農民による落武者狩りに遭って殺されたとされています。

しかし、もともと秀吉軍の兵ではなかった地元の農民や一般人が秀吉軍に入り、そのうちの誰かが首を上げたので、”農民がやった=落武者狩りとされた”のかもしれません。

明智光秀/wikipediaより引用

もちろん、落武者狩りは当時ごく一般的に行われていましたので、本当に小栗栖の農民によるものだった可能性も否定できません。

合戦の記録は盛ってナンボというところもありますし、実際には双方の兵数がもっと少なかった可能性もあるでしょう。

逆に”山崎の戦いにおける秀吉軍の兵数は2万”が事実とすれば、船でまとめて輸送させるくらいしか方法がないような……。

これはこれで天候に恵まれないとうまく行きませんし、乗船中の食料と衛生についての問題もあります。

ただ不可能とは言い切れないでしょう。

備前の宇喜多氏経由で、近隣にいる水軍の協力を取り付けることは可能だったと思われます。

その場合は

「騎馬は全員陸路、歩兵と物資は海路で運べ!」

ぐらいのことはあったかもしれません。

気になるのは背後の毛利軍でしょうか。

毛利方の本拠・吉田郡山城は備中高松城から150km以上離れていますので、水軍の協力を得たことを悟られる前に動くことも不可能ではなさそうです。

6月3日の深夜時点で、備中高松城は降伏するかしないかの瀬戸際であり、秀吉軍の動きを探るどころではなかったでしょうから。

 


補給と休息を可能にする“御座所”

もう一つ注目すべきは”御座所”の存在でしょうか。

近年の発掘で、秀吉は信長が道中宿泊するための御座所を整えていたらしきこともわかってきました。

となると、信長の衣食住としてふさわしい質と量の物資を備えていたはずです。

安土城建設の際は、茶器だけで家臣の家に居候していたほどフットワークが軽い信長でしたが、戦となれば大勢を率いてくるのは当然のこと。

秀吉も詳しい兵数まではわからないにしても、信長軍全員を満足させられるだけの兵糧を蓄えておくなり、後から調達できるように手配を進めていたでしょう。

また、その過程で畿内の情報も集めさせていたと考えられます。

6月5日の時点で秀吉は、摂津の中川清秀にこんな手紙を書いています。

「信長様も信忠様も近江まで無事逃げ延びたとのことです。ついさっき京都からやって来た者に聞きました」

これは逆に、信長父子が既にこの世の人ではないことを確信できる情報を手に入れた上で、清秀が明智方につかないように工作したと考えられます。

中川清秀/wikipediaより引用

後は適切なタイミングで補給と休息をしながら進むのみ――本能寺のような大事件で冷静に大胆な判断をできる人物は、秀吉くらいだったでしょう。

 


中国大返しは普通の行軍か?

とにかく長距離を移動してきたというインパクトばかりに注目が集まりがちなこの一件。

以下のポイントをクリアできれば、そう無茶な話でもありません。

・これまで作っておいた御座所やそこに備えていた物資と人をフル活用

・陸海両方でそれらを速やかに移動

・途中で情報工作

・約8~10日間で230kmを移動して戦に勝った

これを踏まえ

中国大返しは謎でもなんでもなく、普通の行軍だ」

という指摘があり、そう考えるほうが自然な気もします。

最大の謎は、むしろ「なぜ秀吉は、6月3日の時点で光秀の謀反を確信できたのか」でしょう。

仮に光秀が信長や信忠を仕留めきれず、京都から逃げられていたら、勝手に和睦を結んで引き返した秀吉は激怒されるかもしれない。

織田信長(左)と織田信忠/wikipediaより引用

毛利のような巨大な相手に対し、秀吉だけの判断で和睦など、危険すぎます。

信長は、何かやらかしても結果オーライで許すことも多々ありますので、それに賭けたのでしょうか。

とにかく秀吉の判断力のほうが謎めいていて、解明しにくいような気がしてなりません。

なお、この中国大返しで自信をつけたのか。

秀吉は、柴田勝家とぶつかった【賤ヶ岳の戦い】でも、大軍による高速行軍をやってのけ、見事に勝利を手繰り寄せます。

賤ヶ岳の勝利を最終的に決定づけたのは前田利家の戦線離脱でしたが、そもそも秀吉の仕掛けがあったからこそ。

光秀も勝家も、どうあがいても、結局は秀吉に勝てなかったようにも思えてきます。

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長月七紀

2013年から歴史ライターとして活動中。 好きな時代は平安~江戸。 「とりあえずざっくりから始めよう」がモットーのゆるライターです。 武将ジャパンでは『その日、歴史が動いた』『日本史オモシロ参考書』『信長公記』などを担当。 最近は「地味な歴史人ほど現代人の参考になるのでは?」と思いながらネタを発掘しています。

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