慶長5年(1600年)8月22日は【米野の戦い】が起きた日です。
西暦1600年でこの時期の戦いといえば、真っ先に思い出すのが【関ヶ原の戦い】でしょう。
その前哨戦というと、戦国ファンの皆さまには【杭瀬川の戦い】が最も知られた戦いかもしれませんが、それ以外にもいくつか合戦があり、米野の戦いもその一つ。
「よねの」ではなく「こめののたたかい」と読み、岐阜城の南を流れる木曽川や境川の付近で行われています。
東軍は池田輝政や浅野幸長を中心とした18,000。
対する西軍は織田秀信ら9,000。
それは一体どんな戦いだったのか?振り返ってみましょう。
戦いの主役・織田秀信とは
米野の戦いにおける西軍側の総大将は織田秀信です。
「え? 信長のお父さん……?」
と一瞬、勘違いされるかもしれませんが、惜しい、それは織田「信」秀。
織田「秀」信は、信長の孫になります。

三法師が成長して織田秀信となる/wikipediaより引用
織田信長の嫡男である織田信忠の長男であり、その名があまり知られてないのも無理はありません。
歴史の表舞台に出てきたのは清州会議ぐらいで、このとき豊臣秀吉に担ぎ上げられた「三法師」と言えばピンとくるでしょうか。

絵本太閤記に描かれた豊臣秀吉と三法師/wikipediaより引用
その後は際立った活躍はなく、関ヶ原の頃は岐阜に13万石程度を所領する大名でした。
ではなぜ織田秀信は西軍についたのか?
本当は上杉討伐の際に家康から参陣するように求められたときに、秀信自身も参加する予定でした。
しかし、一説によると、参陣しようとした際に自分が着ていく甲冑選びに時間がかかっているうちに参陣に遅れたとか(オイオイ)。
そんな調子で参陣が遅れていたところ、石田三成が挙兵。
どうすべきか?
となった時に、家臣の百々綱家や木造具康からは家康につくように言われたのですが、彼らには前田玄以に相談するように言っている間に、秀信は西軍参加を決めてしまいます。
まぁ、秀信自身、秀吉の養子だった豊臣秀勝の娘を嫁にしていましたので、西軍側につく理由はありました。
逆にいうと、わざと遅れて、西軍に参陣することを取り決めたのかもしれません。
一方の東軍側は、池田輝政が主力です。

池田輝政/wikipediaより引用
この戦の前に、カッとなりやすい福島正則と渡河する場所について竹鼻方面か米野方面かで言い争いになったのですが、井伊直政らが間に入って仲裁。
米野方面には池田輝政ら1万8千が向かうことになりました。
岐阜城から打って出た秀信
なぜ秀信は城から打って出たのだろう?
そんな疑問をお持ちの方もいらっしゃるかもしれません。
せっかく岐阜城という堅城が10kmほどの距離にあるのだから、ここで防衛に努めていればいいのでは?というのは自然な発想。
織田秀信軍は9千程度であり、相手は池田輝政が率いる部隊だけでも1万8千ですから、どう見たって籠城のほうが上策のように見受けられます。
それなのに、なぜ打って出たのか?
根拠はハッキリしておらず、複数の見立てがありますので、以下にざっとまとめましょう。
・秀信自身が戦の経験が少なかったから
・祖父の信長が桶狭間で大勝したから、自身も打って出たほうがいいという厨二病的思考だった
・戦の活路を見出すため自ら前に出た
・木曾川が一つの防衛ラインとしてかなり有利な地形だった
・岐阜城自体が長期間の籠城に向かなかった
実は岐阜城は籠城するのではなく、木曽川付近で迎撃して叩き返すという戦術があり、道三の跡を継いだ斎藤義龍を相手に信長も苦しめられたとされます。
上掲の記事に詳細がありますが、もしかしたら秀信も、そのことを重視したのかもしれませんね。
奮戦するも大軍に押されて
で、戦の経過はどうだったのか?
まず、西軍は河田島付近で東軍をいったん攻撃します。
本当は東軍も福島隊と連携しながら攻撃時には狼煙を上げる予定だったそうですが、相手から攻撃をしてきたので、池田隊がフライング。
これが原因で瞬間湯沸かし器の福島正則と喧嘩になってしまいます。

福島正則/wikipediaより引用
西軍はすぐに押し戻されたため米野まで後退し、池田隊が木曾川を渡河するところを迎撃しました。
この時に織田隊は、百々綱家や木造具康ら総勢3,500ほどで前線に立ち向かうことになりました。
総大将の秀信はそれよりも北にある境川の閻魔堂にて1700人ほどで待機。
その他には約3,000の遊軍が控えていました。
織田隊は渡河する東軍に対して「矢来」(進軍を妨害しつつ敵を誘い込む構造の防御施設)で迎え撃つ構えを見せ、一方の東軍は、池田輝政家臣の部隊が先頭となり、川を渡りました。
織田秀信軍は、東軍が渡河してくるところを、誘い込み鉄砲や大筒で応戦。
茂みに潜ませていた兵を巧みに利用して相手に攻勢をかけます。
しかし、いかんせん兵数の差は歴然。
相手が少数と見た池田隊は一気に反撃しました。
さらには、先鋒を希望しながら却下されて不満に思っていた一柳直盛隊も西軍側の側面を攻撃。
秀信軍はそれでもなお奮戦しますが、さすがに時間の経過と共に敵の数に押され、西軍は敗退してしまいます。
知らせは秀信にも伝えられ、結局、岐阜城へ撤退という憂き目に……。
このとき東軍が挙げた首は227であり、捕虜50人とされます。
一騎打ちが行われていた!?
おおまかな戦の経過については以上、特に驚きのない結果かもしれません。
しかし、この戦いの面白いところは「いまどきそんなの流行らないでしょ~!」と言われそうな「一騎打ち」の話が残されています。
【東軍】からは一柳直盛の筆頭家老である大塚権太夫。
【西軍】からは、岐阜四天王の一人(といっても残りは誰かも知らない)飯沼勘平長資。
大塚権太夫はこの戦でも先陣を切る勇将で、既に二人の敵将首を上げていましたが、それを見た飯沼長資が首を取り返そうとして一騎打ちに発展したのです。
いざ戦いが始まると、飯沼が終始相手を押していく展開。
すると一柳は家臣・大塚の劣勢を見て5人の兵を送り、それを見た飯沼も兵士2人で阻もうとします。
結果、ヘルプは間に合わず、大塚は敢えなく首を取られてしまったのでした。
一騎打ちはこれだけではなく、まだ一つ話があります。
対戦相手は先ほどタイマンに勝ったばかりの飯沼長資と池田輝政の弟・池田長吉です。飯沼さん、タフっすな。
この二人は、飯沼が退却途中にばったり出くわしたもので、飯沼から名乗りを上げられると、挑発に乗って池田弟も自分がいい大人身分であることを忘れて名乗りを上げる。
家臣たちが「マジでそういうの止めてくださいってば!!!」と制止するのも聞かず、一騎打ちに出たのです。
両者は、取っ組み合いの喧嘩のような一騎打ちを展開。
疲労もあったためか飯沼の動きは鈍く、そうこうしているうちに飯沼が打ち取られ、池田弟に軍配が上がるのでした。
このとき池田弟は「敵ながらあっぱれ! 首は家康様へお届けする!」と告げたとされます。
武勇伝は『美濃雑事記』に記載されています。
敗れた織田秀信は岐阜城へ。
ようやく籠城と相成り、その詳細は以下の記事にてご覧ください。
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若年寄・記
【参考】
高橋恒美『米野の戦いリテラシー : 関ヶ原合戦はすでに米野で勝負がついていた』(→amazon)
高橋恒美『企画NPO法人「笠松を語り継ぐ会」』(→link)





