応仁の乱

『真如堂縁起絵巻』/wikipediaより引用

合戦・軍事

応仁の乱って一体何なんだ? 戦国時代の幕開け乱戦をコンパクト解説

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勝元陣営が各地で奮闘

全国の勝元陣営はさらに奮闘します。

斯波義敏が越前を奪還し、武田信賢が一色義直の占拠する若狭へ……と、かねてから遺恨のある相手に戦いを挑んで勝ち、山名方の勢力を削る戦略が次々に進められていったのです。

勝利を収めた彼らは、やがて大軍を率いて京に集まってきました。

勝元自身も、北陸・畿内・四国などの領国や、代々付き合いのあった京都周辺の武士たちを数多く動員できました。

それに従って兵站も確保しやすかったので、緒戦の段階では勝元方が圧倒的に有利だったといえます。

しかし、山名持豊も負けてはおりません。

その年の夏、国元の兵三万を京都に迎え、さらに西国の雄・大内政弘や伊予の河野通春などを味方につけました。

細川方は花の御所(将軍御所)に、山名方は堀川の西にあった持豊邸に本陣を置いたといわれています。

京都市街として見ると、細川方が東側、山名方が西側にあたります。

そのため前者を「東軍」、後者を「西軍」と呼ぶようになりました。

西軍の本陣付近は「西陣」という地名の由来でもあります。織物で有名なあのあたりですね。

なお、両軍の兵力は、東軍16万に対し、西軍11万といわれ、まさに大乱といった様相を呈しておりました。

 

「京都から連中を遠ざけよう!」

両軍はさらに、皇族までも味方につけます。

その辺も含め、あらためて対立構造を整理してみましょう。

【西軍】
足利義政・日野富子・山名持豊・斯波義廉&小倉宮(後南朝の末裔)
vs
【東軍】
足利義視・細川勝元・斯波義敏&後花園上皇・後土御門天皇

この時点で、戦況は一進一退をくり返してグダグダになっていたので、もうヤメれ!と言いたいところなんですが……。

すでに兵の統率も何もあったものではなく、京都市内では両軍の足軽によって補給線の切断、敵陣への放火、襲撃などのゲリラ戦が続きました。

民衆はたまったもんじゃありません。そろそろ「カオス」以外の言葉が欲しい(´・ω・`)

文明元年(1469年)に入ると、細川勝元が戦略を変えてきます。

守護大名たちの地元を突き、京都から連中を遠ざけよう!」

なるほどナイス。

地元に帰らせれば京都は自軍にとって有利に……なるどころか、今度は北陸・中国・九州地方にまで戦線が広がってしまいました。あーあー。

戦いの炎が全国へ飛び火――あるいは全国の対立が京都に集結したようにも見える応仁の乱/photo by Masaqui wikipediaより引用

九州では、大友氏・少弐氏が筑前をはじめとする大内氏の領地へ攻め込みます。

他には、越前・備後・安芸など、両勢力の大名が勢力圏を接する場所で戦闘が始まってしまいました。

当初の戦略としては正解だったのかもしれませんが、なぜ「争いを起こさずに話をまとめる」方向へ進めなかったのか。

命の価値が薄い時代とはいえ、早く収まったほうが人も物も金も消費しなくて済むでしょうに……。

 

両軍の総大将が立て続けに病死だと!?

そんな文明三年(1471年)、大事件が起きます。

西軍に属する斯波義廉の守護代・朝倉孝景が、細川勝元に応じて東軍に寝返ったのです。

斯波義廉にとっては「都で仕事をしている間に自分の家を取られた」みたいな感じですから、そりゃ大騒ぎになるわけです。

こうした流れを受けて、勝元の目論見通り、帰国を急ぐ守護大名が相次ぎました。

ようやく戦略の効果が現れ始めたんですね。

しかし、このような状態の中、文明五年(1473年)3月に持豊が病死。さらにその二ヶ月後に勝元も病死という大事件が起きます。

決着がつかないまま両軍の総大将が亡くなってしまったのです。

これ以上のカオスがあるでしょうか。

まぁ、こういった展開ですと、普通は両軍に厭戦気分も出てきますよね。

『もう、いい加減、お互いに帰国しようよ』みたいな。

ところが、この後も東軍は畠山政長と赤松政則、西軍が畠山義就と大内政弘を大将として戦闘をグダグダと続けるのです。

もはや「先に謝ったら負け」的な考えだったんでしょうね。

こんなときは天皇から「お前らもうやめなさい」と勅令を出してもらうのが最も早い解決方法。

しかし、すでに皇族も巻き込まれており、朝廷の権威も失墜していたためなのか、誰もそういった手段を進めていなかったようです。

一番いいのは、将軍なんですけどね。

やる気を失っていた義政には、どだいムリな相談でした。

 

大切な記録も美術品もことごとく焼けてしまう

結局、この状態は、文明九年(1477年)まで続きます。

畠山義就が河内に兵を引いたのをキッカケに、畠山政久や諸大名もそれぞれ領国に引き上げ、一応、応仁の乱は終わったことになります。

戦とセットになる【講和】などが行われていないため、なんともスッキリしない結末。

総大将の山名持豊と細川勝元が世を去ってから四年間もグダグダしていたことになります。

この乱で一番割りを食ったのは?

やっぱり京都の一般人でしょう。

戦火によって町の大半は焦土と化し、平安遷都以来の寺社も記録も美術品も、ほとんどが焼けてしまったのです。

「京都では『先の大戦』というと応仁の乱を指す」という都市伝説(?)がありますが、こんな状態になったのだから当然ともいえますね。

しかも、後世には織田信長や長州藩にも焼かれてますから、町の原型が残っていることが奇跡的かもしれません。

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足利義政は存命中、将軍の権威回復どころか京都の復興すら実施しませんでした。

そのせいで幕府は名実ともに形骸化の極み。

三管領の畠山氏も細川氏もさらに身内争いを繰り返し、治安は乱れきった状態で固定されてしまいます。

むしろ、義政より足利義尚のほうがなんとかしようとしていたのですが、あまりにも袋小路過ぎて解決方法が見つからず、遂には【酒】にのめりこんで若死にしてしまいます。

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その後の将軍たちも、やはり身内争いが原因で京都を出たり入ったりするばかりで、腰を落ち着けた人はいませんでした。

地方でも、守護大名が留守にしている間に家臣が反乱を起こしたり、国人と呼ばれる武士が力をつけて自治体制を作ったり。

いよいよ戦国時代の幕開けとなるのです。

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【参考】
国史大辞典「応仁の乱」
応仁の乱/wikipedia

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