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【享徳の乱】
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ヤル気を見せた義政だが
勢力が2つに分かれて戦う――というのは現代の我々にとってはわかりやすい構図になりました。
しかし、当時の幕府としてはたまったものではありません。
ときの将軍は八代・足利義政です。この頃はまだやる気がありました。
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義政は、まず成氏を正式にクビとし、異母兄の足利政知を新たな鎌倉公方に任じて、事を収めようと考えます。
そのため上方にいた山内上杉家の面々などをお供に付けて東下させたのですが、関東の武士たちからは
「京から来たお偉いさんが、俺たちのシマに口と手を出そうとしている! そんな勝手なことさせてたまるか!」
と考えてしまい、彼らの支持も強力も得られず、鎌倉に入ることすらできませんでした。
足利政知は、大きな対立を避け、だいぶ離れた伊豆堀越(現・静岡県伊豆の国市)に入り、それから「堀越公方」と名乗るようになります。
義政はこの知らせを受けて関東へ軍を出そうとしますが、よりによってその総大将を命じた守護大名・斯波義敏が、身内のゴタゴタを収めるために地元の越前に行ってしまうという出鼻のくじかれっぷり。
今川氏が政知についていたものの、この頃代替わりなどがあり、戦力としては充分とはいえない状態でした。
義政が仕事を投げ出す原因その1です。
一方そのころ上杉房顕は、長禄三年(1459年)からの【五十子の戦い(いらこorいかご/現・埼玉県本庄市)】において、またもや成氏方にボロ負けしてました。
双方がこの付近に忍城(おしじょう)・深谷城・関宿城などを築き、最前線となりました。
忍城は後に豊臣秀吉の小田原征伐の際、石田三成が攻略を任され、水攻めをしたことで有名になる「のぼうの城」です。
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京都ではドデカイ戦が起きていた
そうこうしているうちに寛正七年(1466年)、上杉房顕が戦場の五十子で病にかかって亡くなりました。
享年32とまだ若かったのですが、亡くなったのが真冬なので、インフルエンザにでもかかったのかもしれません。
房顕の陣没が知らせられると、幕府は房顕のイトコである上杉房定の子・上杉顕定(あきさだ)を房顕の養子ということにして、跡を継がせよと命じます。
戦中の代替わりはなかなか難しいものです。
しかし、上杉顕定は頑張りました。
有力家臣・長尾景春が持氏方に寝返るわ、五十子から撤退するハメになるわといった苦労をしながらも、応仁二年(1468年)の【綱取原合戦】では上杉方が勝利を収めます。
……皆様、お気づきでしょうか。
この一年前の1467年。
上方では【応仁の乱】が始まっているということに。
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当然、幕府は関東へ兵を送るどころではありません。そもそも義政も仕事やる気なくしてます。
しかし、こんなに西も東も戦をやっていて、よく国が保てたものです。大陸国家だったらあっという間に滅亡一直線でしょう。
皇室や公家のお財布事情はえらいことになっていましたけれども、よくこの状況につけこんで一般人が【蜂起→独立勢力化】とかしなかったものです。
いや、その土壌は生成されたのかもしれませんね。
あるいは、独立を計るより落ち武者狩りで一儲けするほうがよかったとか? それはそれでこわい。
本拠地を奪われ取り戻すって……
閑話休題。
足利成氏方から上杉方に寝返った岩松氏内のゴタゴタも片付き、少しずつ上杉方が有利になり始めます。
一方その頃、海を渡った足利成氏が、千葉氏・小山氏・結城氏らを率いて伊豆へ侵攻、足利政知が敗れるという出来事がありました。
これは上杉方にとっても手痛いところですが、ピンチをチャンスに変えるのも名将の条件です。
上杉方のトップである顕定は
「ん? 今なら成氏方の主力が留守ってことだよな? なら、古河を落とせるんじゃね!?」
と気付き、総攻撃をかけて古河を落とすのです。
「上杉」で「戦が上手い」というと、どうしても上杉謙信を連想してしまいますが、他にも名将がいるのは古くからの名家(養子も含めて)ならでは……という感じがしますね。
顕定は、そのまま下野の攻略に成功したものの、成氏も負けていません。ド根性で古河を取り返しています。
というか、一時とはいえ本拠を留守にして足利政知を殴りに行くあたりがよくわからないんですよね。
何を得たくて戦っているのか? 全くわからなくなってきてます。
例えば、幕府から独立したいのなら、東北の大名を味方につけるとか、西国の大名に連絡を取って幕府の背後をつついてもらうとか、いろいろ戦略は取れるはずです。
「遠交近攻(えんこうきんこう)」といって、古くからある戦略です。
また、上記の通りこの間に上方では改元されて【応仁】になっていたのですが、成氏は【享徳】を使い続けています。
トーチャンと同じことばっかりしてますね。悪いとこばっかり似なくてもいいのに(´・ω・`)
28年かけて和睦 将軍家はズタボロ
ここで上杉氏の内紛が絡んできます。
上杉氏の有力家臣の一人・長尾景春が執事(上杉氏のナンバー2にあたる役職)になれなかったことを恨んで兵を挙げ、文明九年1月(1477年2月)に五十子を落としてしまったのです。
これを【長尾景春の乱】といいます。まんまですね。
危機感を抱いた顕定は、文明十年(1478年)に成氏と和睦。そりゃ自分の家の中がヤバイときに対外戦争なんてできないですよね、普通は。
そうこうする間に足利成氏も頭が冷えてきたのか、文明十一年(1479年)に、自ら幕府との和議を申し出ます。
少々の紆余曲折を経て、文明十四年11月(1483年1月)、ようやく成氏と室町幕府の和睦が成立し、享徳の乱は終結しました。
話が丸く収まって何よりですが、ここまでに28年。
原因がしょーもない割に犠牲者が多すぎることからすると、「めでたしめでたし」とは言い難い。
こうなると政知の地位が宙ぶらりんになってしまいそうですが、
「関東は成氏が治めるが、伊豆だけは政知が支配する」
ということで話はまとまりました。ややこしや~。
しかし、成氏は相変わらず古河に留まり、政知も権利を認められたからには堀越を動けず、「鎌倉府」は名実ともに消滅しています。
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以降、鎌倉という地名自体が歴史の表舞台に出てこなくなってしまいますし……。戦火に巻き込まれにくくなってよかった、とも考えられますが。
年号を見るとわかる通り、関東で【享徳の乱】をやってる間に、上方では【応仁の乱】が始まって(一応)終わっています。
「関東を任せたはずの将軍の身内も、将軍自身もケンカを収められず戦が長引いた」ことは、応仁の乱以降の将軍家がナメられ、戦乱が拡大する要因となりました。そりゃそうだ。
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【参考】
国史大辞典
永享の乱/wikipedia