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【享徳の乱】
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幕府の命で今川範忠が出陣
不穏な空気が漂う中、享徳三年(1454年)11月に関東で「享徳地震」と呼ばれる大地震が発生。
主な被害地域は会津・上野・上総とされますが、この地震の被害規模はまだ明確にわかっていません。
これほどの広域が被害を受けたのなら、関東各所も多かれ少なかれ影響を受けたのは間違いなく、各地の武士がその対応に追われたであろうことも想像に難くありません。
年末になり、足利成氏と里見氏・武田氏が、憲忠とその側近を暗殺したことからも、混乱ぶりがうかがえます。
そしてこれが【享徳の乱】の引き金となりました。
関東管領の座は、直ちに憲忠の弟・上杉房顕(ふさあき)が継ぎ、彼は従兄弟である越後守護・上杉房定と組んで、上野平井城に籠もります。
家同士でみれば過去の因縁があるとはいえ、憲忠本人は真面目に仕事をしていたわけですから、房顕たちが黙っていられないのも当然のこと。
このとき、鎌倉付近にいた上杉氏の重臣・長尾景仲は、憲忠の妻など生存者を救出し、地元の上野に戻って兵を集めています。
そして足利成氏vs上杉房顕の戦いとなるわけです。
関係をおさらいしておきましょう。
・足利成氏にとって上杉房顕は「父の仇の息子」
・上杉房顕にとって足利成氏は「兄の仇」
怨恨がそのまま世代交代したような形ですね。
こうして戦が始まり、初戦の【分倍河原(ぶばいがわら)の戦い】は上杉方の惨敗。
このころ上杉氏には「山内家」と「扇谷家」という二つの系統があったのですけれども、なんと扇谷家の主要人物がほとんど命を落としてしまったほどです。
前述の長尾景仲はどうにか生き延びました。
が、政治が総理大臣一人でできないのと同様、戦も武将一人ではできません。
ひとまず常陸の小栗城へ逃れ、同時に幕府へ憲忠暗殺の報告と、足利成氏討伐を求める急使を立てました。
幕府のほうでも事態を重く見て、直ちに駿河守護・今川範忠(今川義元の曽祖父)に出陣を命令。
しかし、今川軍が合流する前に小栗城が落ちてしまい、上杉方は窮地に立たされていきます。
鎌倉を奪われ「古河公方」始まる
成氏はついでに宇都宮等綱(うつのみや ひとつな)を降すなど、転戦を続けました。
しかしここで、留守にしていた本拠地・鎌倉を今川範忠に奪われてしまいます。
「足元がお留守」とはまさにこのこと。
範忠は六代将軍・足利義教のおかげで今川氏の当主になれたようなものだったので、幕府に対する忠誠心が非常に厚い人でした。
しかもこのときは、朝廷から「錦の御旗」まで受けているので、気合の入れようが違います。
さらに範忠の妻は扇谷上杉家の出身ですから、上杉氏全体が縁戚といっても過言ではありません。
もともと鎌倉は、守りやすく攻めにくい場所です。
一度取られたら取り返すのも大変。
このとき、鎌倉の勝長寿院にいた成氏の兄弟・成潤(せいじゅん)は、なんと日光山まで逃げ、上杉方についています。
つまり、鎌倉には足利氏の人間がいなくなってしまった……という、なんとも締まらない展開になったわけです。
これにより足利成氏は鎌倉に戻るのを諦め、古河(現・茨城県古河市)に落ち着きました。
この後から持氏は「古河公方」と呼ばれるようになります。
◯◯公方乱立の始まりです。
世はまさに下剋上
関東を抑えるべき鎌倉公方&関東管領がこんな状態ですから、他の勢力もとても大人しくはしていません。
同地方の大名たちは
「よし、今うまくやれば俺のシマを広げられるぞ!」
「今のうちに本家の家督を奪ってやろう!」
といった野望を抱いて、次々に動き始めます。
例えば千葉氏では、分家の人たちが本家を倒して家督を奪い、宇都宮氏では当主・宇都宮等綱が重臣に裏切られて本拠の宇都宮城を奪われました。
まさにThe・下剋上!
上杉方が不利になりつつある中、関東管領・上杉房顕は諦めずに武蔵へ入り、足利成氏と戦い続けます。
こうして、当時、江戸湾(東京湾)へ流れていた利根川を境として、
古河公方・足利成氏方
vs
関東管領・上杉方
という勢力に分かれました。
現在の利根川は渡良瀬川などと合流して太平洋に繋がっていますが、この状態になったのは、江戸時代の治水工事で大きく流れを変えられてからのこと。
室町・戦国時代の利根川は、荒川と合流して江戸湾(東京湾)へ流れていました。
現在の地名でいえば、江戸川と荒川の間あたりが成氏方と上杉方の境目です。
あるいは「両国」という地名が「下総・武蔵両国の境目」という語源ですから、「現在の両国国技館・江戸東京博物館あたりが境目」と考えてもいいかもしれませんね。
旧国名だと、
常陸・下野・下総・上総・安房あたりが成氏方
武蔵・下野・相模あたりが上杉方
であり、関東が東西に分かれたような形です。
鎌倉のある相模が上杉方になっているあたり、「成氏、やっちまったな」という感がありますね。
やる気を見せた義政だが
勢力が2つに分かれて戦う――というのは、現代の我々にとってはわかりやすい構図です。
しかし、当時の幕府としてはたまったものではありません。
ときの将軍は八代・足利義政。
応仁の乱あたりからどんどん仕事をやらなくなっていくあの人ですが、この頃はまだやる気がありました。
義政は「まず成氏を正式にクビにし、私の異母兄である政知を新たな鎌倉公方に任じて、事を収めよう」と考えます。
政知には上方にいた山内上杉家の面々などをお供に付けて東下させたのですが、関東の武士たちからは
「京から来たお偉いさんが、俺たちのシマに口と手を出そうとしている!そんな勝手なことさせてたまるか!」
と受け取られてしまい、彼らの支持も協力も得られず、鎌倉に入ることすらできませんでした。
足利政知は大きな対立を避け、鎌倉からだいぶ離れた伊豆堀越(現・静岡県伊豆の国市)に入り、そこで「堀越公方」と呼ばれるようになります。
義政はこの知らせを受けて関東へ軍を差し向けようとしますが、よりによって総大将を命じた守護大名・斯波義敏が
「身内のゴタゴタを収めるために、命令をほっぽりだして地元の越前に行ってしまう」
という出鼻のくじかれっぷり。
ちなみに義敏はこの件で当然義政に激怒され、隠居させられています。ダメ過ぎますね。
今川氏は政知に味方したものの、このころ代替わりなどがあり、戦力としては充分とはいえない状態でした。
こういった流れは、義政の意欲を削ぐ一因にもなります。
そりゃ、何かやろうとするたびに水を差されるのですから、
「もう俺が動かないほうがいいんじゃないか?」
「真面目にやろうとしてもどうせ無駄に終わる」
と思いたくなるのも当然ですね。
かつてご先祖の足利尊氏が切腹しかけるたびに、弟の直義や高師直などがやる気を出させていたように、義政にもうまく叱咤してくれる人がついていてくれれば良かったのですが……。
一方その頃、関東管領である上杉房顕は、長禄三年(1459年)からの【五十子の戦い(いらこorいかご/現・埼玉県本庄市)】において、またもや成氏方にボロ負けしていました。
双方がこの付近に忍城(おしじょう)・深谷城・関宿城などを築き、最前線となっています。
忍城は後に豊臣秀吉の小田原征伐の際、石田三成が攻略を任され、水攻めをしたことで有名になるところです。
近年では小説映画『のぼうの城』の舞台としても知られていますね。
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