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【享徳の乱】
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京都ではドデカイ戦が起きていた
そうこうしているうちに寛正七年(1466年)秋、上杉房顕が戦場の五十子で病にかかって亡くなりました。
享年32という若さでもあり、状況的にもきな臭いどころじゃない時期ですので、いろいろと疑わしいところですが……亡くなったのが真冬なので、インフルエンザにでもかかったのかもしれません。
房顕の訃報を聞いた幕府では「房顕のイトコである上杉房定の子・上杉顕定(あきさだ)を房顕の養子ということにして、跡を継がせよ」と命じます。
戦中の代替わりはなかなか難しいものですが、上杉顕定は頑張りました。
応仁二年(1468年)の【綱取原合戦】で上杉方が勝利を収めたのです。
これは「タイミングが良かった」という面もありました。
……皆様、お気づきでしょうか。
この一年前の1467年に上方では【応仁の乱】が始まっているということに。
当然、幕府は関東へ兵を送るどころではありません。そもそも義政もやる気をなくしています。
しかし、こんなに西も東も戦をやっていて、よく国が保てたものです。
大陸国家だったらあっという間に外国から攻められて、滅亡一直線でしょうね。
その心配がなかったからこそ、悠長に身内闘いを続けてしまったんでしょうか……。
本拠地を奪われ取り戻すって……
閑話休題。
そのうち成氏方から上杉方に寝返った岩松氏内のゴタゴタも片付き、少しずつ上杉方が有利になり始めます。
一方で文明三年(1471年)、海を渡った足利成氏が、千葉氏・小山氏・結城氏らを率いて伊豆へ侵攻し、足利政知が敗れるという出来事がありました。
これは上杉方にとっても手痛いところですが、ピンチをチャンスに変えるのも名将です。
上杉方のトップである顕定は「ん? 今なら成氏方の主力が留守ってことだよな?なら、古河を落とせるんじゃね?」と気付き、総攻撃をかけて古河を落としました。
「上杉」+「戦が上手い」というと、やはり上杉謙信を連想してしまいますが、他にも名将がいるのは古くからの名家ならでは……という感じがしますね。
顕定はそのまま下野の攻略に成功したものの、成氏も負けていません。
ド根性で古河を取り返しています。
というか、一時とはいえ本拠を留守にして政知を殴りに行くあたりがよくわからないんですよね。
何を得たくて戦っているのか、全くわからなくなってきてます。
例えば、幕府から独立したいのなら、東北の大名を味方につけるとか、西国の大名に連絡を取って幕府の背後をつついてもらうとか、いろいろ戦略は取れたはずなのです。
これは「遠交近攻(えんこうきんこう)」といって、古くからある戦略ですので、どちらの陣営も聞いたことくらいはあったでしょう。
また、上記の通りこの間に上方では改元されて【応仁】になっていたのですが、成氏は【享徳】を使い続けています。
トーチャンと同じことばっかりしてますね。悪いとこばっかり似なくてもいいのになぁ。
28年かけて和睦 将軍家はズタボロ
さらにややこしいことに、ここで上杉氏の内紛が絡んできます。
上杉氏の有力家臣の一人・長尾景春が執事(上杉氏のナンバー2にあたる役職)になれなかったことを恨んで兵を挙げ、文明九年1月(1477年2月)に五十子を落としてしまったのです。
これを【長尾景春の乱】といいます。まんまですね。
ここで大活躍したのが、扇谷上杉氏の家臣・太田道灌です。
最初の江戸城を築いたことで有名なあの人ですが、江戸城はこの乱の中で上総方面への防備のために造られたのでした。
現代でも皇居と両国は4kmも離れていませんので、当時の勢力図がうかがえますね。
危機感を抱いた顕定は、文明十年(1478年)に成氏と和睦。そりゃ自分の家の中がヤバイときに対外戦争なんてできないですよね、普通は。
この頃に上方でも応仁の乱が一応終結したため、幕府からも和睦が提示されました。
そして文明十四年11月(1483年1月)に
「関東は成氏が治めるが、伊豆だけは政知が支配する」
ということでようやく話はまとまり、享徳の乱は終結しました。
しかし、成氏は相変わらず古河に留まり、政知も権利を認められたからには堀越を動けず、「鎌倉府」は名実ともに消滅。
以降、鎌倉という地名自体が歴史の表舞台にほぼ出てこなくなってしまいます。戦火に巻き込まれにくくなってよかった、とも考えられますけれども。
それでなくても、災害に遭いやすい土地ですしね。
話が丸く収まって何よりといいたいところですが、ここまでに要した時間は実に28年。
原因がしょーもない割に時間がかかりすぎ&犠牲者が多すぎることからすると、「めでたしめでたし」とは言い難いわけで……。
ちなみに関東で【享徳の乱】をやってる間に、前述の通り上方では【応仁の乱】が始まって(一応先に)終わっています。
しかしそれは室町幕府が
「関東を任せたはずの将軍の身内も、将軍自身もケンカを収められず戦が長引いた」
ことを意味します。
そして応仁の乱以降の将軍家がナメられ、戦乱が常態化する要因にもなりました。
そりゃそうだ。
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長月 七紀・記
【参考】
渡邊大門『戦乱と政変の室町時代』(→amazon)
国史大辞典
世界大百科事典