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【大坂冬の陣】
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大野治長たちの籠城策は弱腰でもなかった!?
なぜ、完璧な防御を誇る大坂城の外に、真田丸という砦を設置する必要があったのか?
それを考えるには、大坂城内での豊臣方首脳部や真田信繁たち浪人衆などの立場なども考察しておくのが肝要です。
大坂冬の陣が始まる前、大河ドラマでもありましたように後藤又兵衛基次や真田信繁などの浪人衆が、城から出陣して近江の瀬田などに陣を取り、先制攻撃を仕掛ける戦略を主張しました。
畿内の要衝で徳川方の大軍を迎え撃つには最適なポイントだったからです。
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しかし、この計画は豊臣方首脳部によって却下されます。
彼らにとっては浪人衆がいまいち信用できなかったというのもあるのと同時に、大坂城の守りに絶対的な自信を持っていたのでしょう。
大野治長などの豊臣家直臣たちは、信繁などの浪人衆と比較され、小説などではなんとな~く弱腰に語られがちです。
そのため「大坂城で迎え討つプラン」はイマイチなんじゃないか? と、思う向きもありますが、実は彼らも浪人衆と同じく主戦派です。
ただ、大野たちの目的は「豊臣家の存続」であり、戦で徳川家を徹底的に叩きのめすことではありません。
合戦はあくまで豊臣家存続に有利な条件を引き出すための手段でない。
と、そういう意味では長期戦に持ち込める籠城は決して悪くはありません。
特に大坂冬の陣ではその成功が豊臣方に有利になる理由がいくつか考えられました。
まず大きいのは、家康の寿命です。
もし戦いが何年もダラダラ続けば高齢の家康はいずれ死に、2代目・徳川秀忠の時代になるでしょう(といっても既に将軍職は譲られていますが)。
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そればかりか秀頼の母である淀の方と秀忠の妻・江の方は浅井三姉妹という血の濃い親戚関係でもあります。
ゆえに豊臣家の存続は固いと踏んでいました。
後詰も期待できない豊臣が、この期に及んで徳川幕府をひっくり返して政権を奪取するなんて馬鹿げた考えは毛頭なかったでしょう。
城外に置いていた兵は真田丸だけじゃない
大野治長たちが馬鹿ではないことはわかった。
が、問題はある。そもそも大坂城は籠城戦に耐えられたのか?
これは少し時代を遡れば十分に結果が出ております。
大坂城の前身である石山本願寺がこの地で織田信長の攻撃に約10年も耐えたように、十分な蓄えと海からの補給があれば籠城できる実績があります。
大坂城にはさらに外側に一辺2キロの総構も構築されており、石山本願寺時代よりも籠城戦に対応できる能力を保持しておりました。
また、朝鮮出兵時の苦しい籠城戦を耐えた加藤清正など、豊臣方諸将の経験が大坂城の増築時に活かされておりますため、城内で自給自足ができ、大軍を待ち構える拠点として十分な資格も兼ね備えておりました。
よって大坂城の防御力を頼りとして長期戦に持ち込み、和睦と破談をダラダラ繰り返しながら家康の死を待つというのは極めて現実的な選択の一つでもありました。
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こうした条件を踏まえながら、いざ籠城戦となった時点で、豊臣方は大阪城外の要衝に配置していた砦群にも兵を置きました。
真田丸だけではないのです。
中でも最重要の拠点だったのが「木津川口の砦」で、ここは本願寺vs織田信長の石山合戦時代にも海からの補給路として毛利家の村上水軍と織田水軍が制海権を争った場所でもあります。
大坂城になってからも同様に、海からの補給路として大型船が城のキワまで入ることができる場所でもあり、最重要の地となっておりました。
しかし、守将の明石全登(あかし たけのり)が大坂城での会議中に、徳川方の蜂須賀至鎮(よししげ)の軍勢によってあっさりと奪われてしまいます。
豊臣方の無能さや戦下手を印象付けるような結果――と言われればそれまでですが、そもそも他に後詰が期待できない豊臣方にとっては、仮に木津川口の砦を保ったとしても、外からの補給は期待できません。
そんな理由からイマイチ防御に気合いが入らなかったのは仕方のないことだったかもしれません。
ただ、残念なのは、木津川口の砦を単なる補給拠点としての位置付けでしか見ておらず、城外で敵をひきつける戦略上重要な拠点という見方までできなかったことでしょうか。
木津川口を奪われた後、同様に博労淵や福島、鴫野など城外の砦を次々と徳川方に奪われ、そして最後に残された城外の拠点が「真田丸」でした。
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真田丸は幅180m 甲子園球場で118m
いよいよ本丸、いや真田丸へと参りましょう。
真田丸の構造についてはいろいろと云われていますが、実はハッキリとは分かっていません。
おい! いきなりお手上げかよ!
と思われるかもしれませんが、冬の陣後に埋められてしまったので、遺構もほとんど残っていないのです。
しかし最近の発掘調査で単なる城門を守る構造物でもなかったことが分かってきました。
一般的に真田丸は「馬出」のように云われます。
馬出といえば、甲州流築城術に代表され、武田信玄家臣の山本勘助によって考案されたといわれる「丸馬出」が有名です。
城の中心であり弱点でもある城門を囲むように半円形の曲輪を城外で形成し、半円部分で寄せ手を撃退しつつ、両翼の出入り口から馬を出し、寄せ手の側面に打撃を与えるものです。
攻守に優れた防御施設だっため、真田丸と聞いて多くの人が最初に思うのは、この甲州流の丸馬出だと思います。
しかし、甲州流の丸馬出のイメージでいると、真田丸を見誤ります。
逆に真田丸を甲州流の丸馬出のイメージでいると、甲州流築城術の「馬出」を見誤ります。
というのも真田丸は甲州流の馬出にしては、ありえないほど巨大、というかもはや馬出の規模を超えた構造物で「城」そのものなのです。
なんせそのサイズは従来の説でも東西180mで南北220mとされているほど。
※奈良大学・千田教授の研究によりますと、東西180→220m、南北220m→280mという試算
たとえば甲子園球場ですとキャッチャーの位置からセンターのフェンスまでの距離が118m。東京ドームや福岡のヤフオクドームでも122mしかありません。
サッカーのピッチは国際大会の規定で、広くても一方のゴールマウスから反対のゴールマウスまでの長さは110mです。
真田丸の長辺180mがどれだけの大きさは想像できたでしょうか。
巨大な馬出というよりもはやスタジアム。おっと間違えた。小規模な城なのです。
一方、甲州流築城術における馬出は、攻め手より少ない兵力でいかに効率的に守り、反撃するかに重点が置かれていますので、基本的にコンパクトな造りになっています。
真田丸のような馬出を造ってしまうと、兵力不足で隙だらけの馬出になってしまうのです。
ではなぜ、真田信繁は真田丸のような巨大な施設を作る必要があったのでしょう?
まず防衛の観点からいうと、一辺2キロの総構を守ると考えた時に、限られた兵力をいかに配置するかが問題です。
大坂城の南側の城門は4箇所ありますが、徳川方の攻撃ポイントが一辺2キロのどの辺りに重点が置かれるのか、また2キロに渡って全面で攻撃を受けるのかが分からない限り、兵の配置は流動的で定まりません。
この時点で攻撃側に主導権を握られてしまいます。
戦ではいかに主導権を握るかが重要です。
戦略・戦術とは、戦の主導権を握り、握り続けるための計画です。
一般的に籠城戦では攻城側に主導権が握られていますが、守備側にしても主導権をいかに取り戻すか?を考えます。
その方法の一つが「後詰め」です。
背後に援軍を送り込むことができて初めて、攻撃側から守備側に主導権が移るのです。
では大坂の陣ではどうでしょうか。
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