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【大坂冬の陣】
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血気盛んな若い兵士を罠にハメ、本陣を狙う!?
徳川方の先鋒は前田利常率いる加賀兵でした。
このとき関ヶ原の戦いから15年も経ち、戦国時代を暴れ回った武将たちも代替わりして、大坂の陣が初めての実戦で血気にはやる若い将兵だらけです。
心配した家康の指示で前田の軍勢には鉄砲玉避けの竹束を用意させたり、塹壕や土塁を構築したりしておりました。
そんな中、篠山に陣取った真田の兵士が前田方に鉄砲を撃ち込んで挑発します。
真田家にとっては使い古された挑発戦術ですが、前田家の将兵はこれに見事に引っかかります。
前田家・家臣の本多政重(本多正信の次男)は篠山まで陣を進めましたが、真田家の兵士は既にもぬけの殻。
戦の定石として小高い丘を占拠しておくことは、視界が開けて戦場の主導権を握れますので、通常、攻める側も守る側も丘の占拠に全力を注ぎます。
しかし真田家はあっさり放棄して真田丸まで後退します。
なんだか聞いたことのある“後退”ですね。
そうです。真田丸にとっての篠山は、上田城にとっての三の丸や二の丸なのです。
このようにあえて戦略要地を敵方に渡して、油断を与え、本丸に誘い込んで全力で叩くという戦術が真田丸でも見事にはまります。
城の造りに違いはありますが、さすが親子、コンセプトは同じですね。
すべては上田城の戦いを参考にした戦術展開だったことを考えると、この後、追撃戦に移り、敵本陣に迫って大混乱を与えるというのが真田ファミリーの必勝パターン。
前田家の本陣のみならず、秀忠や家康の本陣を襲う計画も練られていたとしてもおかしくはありませんし、実際、はやる徳川軍の先鋒たちに壊滅的な打撃を与えました。
その数、千を超えて相当数な死者が出たと目されています。
信繁の目論見は大いに当たったのです。
実際、彼はこの段階で大いに武名を上げたと言われています。
しかし!
ここで信繁にとっては最悪の展開が待ち構えておりました。
豊臣方の首脳部が家康の和睦を受け入れてしまったのです。
真田丸は敵を引きつけ、多大な犠牲を払わせたという点では、拠点防御の役割を十分に果たしました。
しかし巨大な大坂城では所詮、局地戦の勝利でしかなく、豊臣方に圧倒的優位な条件をもたらすほどの戦果にはなりませんでした。
一方、徳川方は真田丸とは全く違う場所で大きな戦果を挙げていました。
それが徳川方の大砲による、大坂城北側からの攻撃です。
現代でも大坂城の弱点は陸続きの南方だと信じて疑わない記述にあふれていますが、大坂城の本当の攻略ポイントを知っていたのは古今東西、徳川家康だけだったのではないか?と思うほど鮮やかな狙いでした。
大坂城、本当の弱点はここだ!
基本的に最高指揮所である本丸は、最後の砦であり、ここをいかに守るかが縄張りの肝となります。
本丸を守るために十重二十重に郭や堀を巡らせます。
大坂城は黒田官兵衛、長政父子によって縄張りが施され、加藤清正などによって補強されたといわれています。
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官兵衛が設計をミスったか、はたまた自らの天下取りのために弱点を造っていたのか、いや、長政が余計な追加をしてしまったのか?
勝手にそんな妄想をしてしまいますが、黒田官兵衛・長政の時代では間違いなく最高水準の築城です。
石山合戦時、最高の動員兵力と戦術、そして最新技術を導入していた織田信長ですら、結局は退去を条件に盛り込んだ「和睦」で決着をつけ、落城させてはいません。
まさに難攻不落。
当時、最新鋭の兵器(火縄銃や鉄甲船)や戦術(火力の集中運用や水軍による制水権)をもってしてもかなわないのが大坂城の前身、石山本願寺でした。
そんな地の利に恵まれたこの地に、総石垣の巨大な城を築けばさらに防御能力は圧倒的になります。
それが黒田官兵衛の設計による大坂城だったのですが、時代は移り、大坂冬の陣では官兵衛の時代に存在は知っていてもほとんど実戦で使用されなかった最新兵器が投入されました。
大砲(大筒・石火矢)です。
戦国期の大砲については、精度も飛距離も悪いので、さほどの威力はなかったといわれています。
確かにその通りで、狙った場所を狙えなかったり、野戦においても敵を威嚇する程度の兵器でした。
なんせ大砲は砲身が壊れやすく、何より運搬がとてつもなく面倒でした。
しかし、いかに精度は悪いとはいえ、視認できる位置に巨大な「的」があればどうでしょう?
三角関数を使って目視できない位置に撃ち込むことに比べれば遥かに容易いですよね。
この的にされたのが大坂城の巨大な天守だったのです。
天守が見えれば「本丸はココです」と言っているようなもの。多少精度は悪くともその方角に向かって撃ち込めばいいわけです。
日本の戦国期と同じ頃、16世紀後半の欧州で大砲はすでに攻城戦に必須の兵器でした。
これに対抗するため、欧州の城は城壁がどんどん厚くなり、城の天守も的にならないよう低くなり、終いには無くなっていきます。
日本では、火縄銃が普及し、それに対して城も石垣や水堀で縦深を作るなどの対抗措置はできていました。
ただし、大砲の運用が遅かったため、これに対抗する防衛戦略が皆無。
よって天守から1キロも離れていない備前島からの砲撃によって、直接天守が破壊されるという戦術に対抗できなかったのです。
北側にも十分な縦深を取れる曲輪や総構を延長していれば対応できましたが、築城当時は大砲による攻撃という発想がなく、河川と高石垣で十分に防御可能という判断のまま築かれました。
むろん、これは結果論に過ぎません。
当時、想定できなかったものに備えよというのは酷な話でしょう。
家康が一枚も二枚も上手だったのは最新兵器の投入に躊躇わなかったことに尽きます。
ただ、そもそも大砲を最初に活用したのは、関ヶ原の戦い直前に西軍として大津城を砲撃した立花宗茂や西軍の総大将・石田三成です。
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豊臣方にその気があれば、最新兵器の研究はできたはず。
つまりは備前島まで徳川方に侵入された時点で勝負は半ば決していたのでしょう。
補給線としての役割はなくても河川から城のキワまで徳川方に侵入させないためにも木津川口の砦は死守するべきだったのです。
もちろん豊臣方も軽視はしてなかったのかもしれません。
しかし、軍事拠点は、単に要衝に設置するだけではダメで、運用者の能力に依るところが大きい。
真田丸では勝利し、木津川口砦があっさり奪われるというのは、防御力というよりも守将の能力でしょう。
本丸を砲撃され「もう和睦したい」と淀の方に詰め寄られた豊臣家臣団は、不利な条件での和睦を受け入れてしまいました。
豊臣家の中枢には「淀の方」という弱点があったのです。
戦に出たこともなければ、初陣もしたことのない人間が、また外交交渉の経験もない人間が総大将(秀頼)の母だからという理由だけで口を出すのを認めてはいけません。
女が戦に口を出すなと言っているのではありません。
戦は戦のプロに任せるべきであり、外交もまた外交のプロに任せるべきなのです。
結局、優位を保った南側総構は冬の陣終了後に破壊され、続けざまに三の丸や二の丸の堀も埋められます。
当然ながら真田丸も破却されたので、真田家得意の防御戦術も役に立たなくなります。
これが真田丸の全貌です。
最後にポイントだけまとめておきましょう。
①大坂城の南側は別に弱点じゃない
→空堀・堀切舐めると倍返しだ!
②真田丸はとにかく巨大なことに意味がある
→血気盛んな若い兵士を倍返しだ!
③大坂城の弱点はむしろ北側だった
→築城当時にはなかった大砲が普及し「技術はうそをつかない!」
ラストは「下町ロケット」になってしまいましたが、ともかく大坂城の弱点は「北側からの砲撃」というオチでした。
真田丸の記述も、元々は「通常、城の弱点と言われる城門の強化のために~」という馬出をイメージしたものだったのが、何度も引用されているうちに伝言ゲームの要領で「大坂城の弱点である南側の陸続きの補強のために~」という解釈になってしまったのではないでしょうか。
かわいそうなのは大坂城の総構と空堀の扱いです。Wikipediaが編集されることを切に願います。
え? 自分でしろって?
筆者:R.Fujise(お城野郎)
日本城郭保全協会 研究ユニットリーダー(メンバー1人)。
現存十二天守からフェイクな城までハイパーポジティブシンキングで日本各地のお城を紹介。
特技は妄想力を発動することにより現代に城郭を再現できること(ただし脳内に限る)。
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