こちらは3ページ目になります。
1ページ目から読む場合は
【小牧・長久手の戦い】
をクリックお願いします。
お好きな項目に飛べる目次
お好きな項目に飛べる目次
勝手に和睦しよった!戦況を動かしたのは伊勢だった
徳川軍の快勝となった長久手の戦いが終わると、再び、静かな合戦へと戻りました。
細かな戦闘はあっても、趨勢を左右するような流れにはならず。
小牧周辺では厭戦気分すら漂う中、戦況を動かしたのが【伊勢】です。
メインの戦場となった尾張の隣・伊勢でも戦闘が行われていて、羽柴秀長や蒲生氏郷らが同地方へ攻め込んでいたのです。
伊勢方面は、小牧・長久手の戦い主役の一人・織田信雄の本国でした。
秀吉は、その拠点をいくつか陥落させると、いよいよ長島城の織田信雄へ迫り、兵糧攻めを敢行……するのではなく、講和をもちかけます。
負けているならまだしも、なぜ、秀吉から和睦を求めたのか?
前述の通り、この戦いはそもそも織田信雄が秀吉と対立し、徳川家康に協力を求めたことから始まっています。
つまり、信雄が戦線放棄してしまうと、家康には戦う理由がなくなってしまう。
戦乱期とはいえ大義名分は重要です。
秀吉が目をつけたのは、まさにそこでした。
結局、家康は、兵を退かなくてはならない状況に追い込まれてしまいます。
戦後処理 秀吉の思惑どおりにコトは進んだ?
秀吉と家康の対立――。
この和睦によって両者完全には手打ちとはならずも、概ね、秀吉の思惑に沿って終結しております。
よほど満足のいく結果だったのか。
信雄に対しては人質提出だけでOKという寛大な処置。
賤ヶ岳の戦いでは、自分に反した織田信孝(信長の三男)を自害まで追い込んだのに、信雄には領地の安堵なども認めるほどです。
家康からは、人質として次男の結城秀康をとり、その後、家康サイドについた勢力については、紀州攻め、越中攻め、四国攻め、小田原征伐で討伐することになります。
面目丸つぶれの家康は、さぞかし苦虫を潰すような顔になったことでしょう。
織田信雄の勝手な講和により、中途半端なカタチで戦が終わり、そして徳川家も豊臣政権の中に取り込まれることになってしまいます。
最終的には、江戸幕府を開いた家康の勝ちですが、秀吉存命の頃は叶わなかった。
秀吉は中央(東海・関西・甲信越)エリアをほぼ掌握し、天下人への道を邁進していく――そんな契機となったのが小牧・長久手の戦いです。
なお、秀吉・家康・信雄3人の生涯については、以下の関連記事からご参照ください。
あわせて読みたい関連記事
山崎の戦いで明智軍vs羽柴軍が衝突!勝敗のポイントは本当に天王山だったのか
続きを見る
清洲会議で秀吉が三法師を担ぎ上げたのはウソ? 実際は何を決める場所だったのか
続きを見る
賤ヶ岳の戦いで秀吉と勝家が正面から激突! 勝敗を決めたのは利家の裏切りか
続きを見る
豊臣秀吉のド派手すぎる逸話はドコまで本当か~検証しながら振り返る生涯62年
続きを見る
徳川家康はなぜ天下人になれたのか?人質時代から荒波に揉まれた生涯75年
続きを見る
織田信雄(信長の次男)は本当に愚将だったのか?信長の血筋を現代へ繋げる
続きを見る
豊臣秀次はなぜ自害へ追い込まれたのか~殺生関白と呼ばれた秀吉の甥その最期
続きを見る
文:編集部
【参考】
峰岸純夫/片桐昭彦『戦国武将合戦事典(吉川弘文館)』(→amazon)
歴史群像編集部『戦国時代人物事典(学習研究社)』(→amazon)
滝沢弘康『秀吉家臣団の内幕 天下人をめぐる群像劇 (SB新書)』(→amazon)
国史大辞典