本多忠籌は松平定信に言い聞かせます。
「人は正しく生きたいのではないのでございます。楽しく生きたいのでございます」
松平信明も続きます。
「倹約令を取りやめ、風紀の取り締まりを緩めていただけませぬか?」
それに対し、果たして定信は?
松平定信の独裁強化
「世が乱れ、悪党がはびこるのは、武士の“義気“が衰えているからだ。武士が”義気“に満ち満ちれば、民はそれに倣い、正しい行いをしようとする。”欲“に流されず”分“をまっとうしようとするはずである! 率先垂範! これよりはますます倹約につとめ、”義気“を高めるべく、文武に励むべし!」
こう叫ぶ定信の前で、長谷川平蔵の顔が萎れてゆきます。
改革を緩めようとせず、黒ごまむすびの会以来の「信友」らを遠ざけ、イエスマンばかりを重用する定信。
さらなる独裁へと突き進んでしまう。
本作ではあまり触れられませんが、定信は風紀取り締まりだけに奔走していたわけでもありません。
外交政策もターニングポイントに直面しており、常に過労状態でした。
外交については再来年の大河ドラマ『逆賊の幕臣』の時代にまで影響は及びます。
私は『べらぼう』を全面肯定するわけでもなく、もうちょっと言及して欲しい要素はあります。
その一つが仙台藩です。
伊達重村も一橋治済と親しい外様大名であるとか。その重村と親しい高岳とか。工藤平助と、その娘である只野真葛が江戸期を代表するフェミニストであるとか。

伊達重村/wikipediaより引用
仙台藩は大変面白いですし、江戸後期の対外情報網を踏まえる上でも重要な存在でした。
むろん、仕方ないとは思います。そこまでやるとキリがない。
治済と親しい外様大名枠として松前道廣や島津重豪を優先するならばそこは致し方なし。
やればできるけれども、ドラマ制約上やらない点についてはどうこう言わんでもいい。せいぜいがここで補足すればよいかもしれません。
私が許せないのは「やればできる、大河チームならやってやれんわけがない!」要素をやらない時ですね。そこは切り分けて欲しいものです。
この場面で気になったのは”義気“ということ。
前回おていさんが「義を見てせざるは勇無きなり」と言ったことを思い出させますぜ。柴野栗山から問答を聞いたかどうかはわかりませんが。
そして本多忠籌と松平信明が、一橋治済の前にいます。
治済の手には、葵小僧が持っていたものと同じ葵の御紋入り提灯。
どうやらこの男は、定信の迷走を面白がっているようですね。
蔦重も京伝も、処罰がじわじわ効いてきている
一方、蔦屋重三郎は、真面目な口上付きの本を出しているんだとか。
京伝先生に頭を下げてやっと筆をとってもらったそうですぜ。
なんでも身上半減の宣伝効果で売上が伸びたのも一瞬のみ。じわじわボディブローのように経営に響き、煙草も倹約させられていると、蔦重が鶴屋喜右衛門相手にぼやいています。
倹約をしているとふんどしの苦労がわかっちまうってよ。
蔦重が、田沼意次時代から幕府の金蔵(財政)再建に取り組んでいると語るところは重要でしょう。
定信にしても「倹約だ」と触れ回る一方で、実は田沼政策を継承している要素は多いのです。

松平定信/wikipediaより引用
すると鶴喜が、ふんどしの深慮遠謀を解き明かします。
蔦重の店を潰したら倹約しようがない。半減ならば潰すには惜しいから、倹約に励むことになる。そうやってふんどしの苦労がわかるってことでさ。
江戸一の本屋が倹約してくれるなら効果も絶大。率先垂範ですわな。
蔦重は「しゃらくせえ!」と言うものの、鶴喜は稼ぐ手立てがあるのか?と聞いてきます。
「再印本」を出すと答える蔦重。
売り物がなくなったときに蔵出しをしたら結構売れたようで、古い板木から黄表紙を刷り直して再販することにしたようです。
名作黄表紙揃いものにもなるって寸法でさ。
鶴喜はそのアイデアに感心し「うちもやってみようかな」とまで言い出す。蔦重は勘弁してくれと止めております。
鶴喜が冗談だと答えながら、昔のでよければ京伝本の古い板木も譲ってくれるそうですぜ。
ただ、交換条件はある。
京伝の新作を鶴屋が取ることが条件だそうです。
その山東京伝は障子張りをしながら「真人間になる」と蔦重と鶴喜に宣言しています。
手鎖で手首を痛めて筆も持てないと語っていますが、それが大袈裟なことは、障子張りをしてたらバレますわな。
「心学」みたいなものでもよい。そう譲歩する蔦重に対し、それでも京伝は渋っています。
すると鶴喜は、お抱え料金三十両の返金を迫ってきました。
これが近代的な契約ってやつよ。京伝は困惑しだし、鶴喜は念押しします。
補足しておきますと、京伝がフラフラできるのは、しっかり者の弟である京山がいるということもあります。経営センスは弟の方があったのでしょう。
ここで妻の菊が、唄うように「この方どうです?」と言いつつ、雲を踏むように茶を運んで歩いてきます。
江戸の家がまるで宮殿のように思えるほど美しいのが、京伝の愛妻である菊でやんす。
滝沢瑣吉を耕書堂に置いていく山東京伝
するとその背後から、何か陰湿そうな男が来ました。
乱世の世界観ならば、こいつの謀略のせいで何人も破滅させられる。そういう面構えですね。
「俺の代わりに、この人書けます! 書けますよ、へへっ」
京伝はそう言いながら、謎の男を紹介してきます。一体なんなんだ、こいつは。戸惑っている蔦重と鶴喜に、京伝は「門人のようなもの」とゴニョゴニョ言い出しました。
「門人ではない! 友人だ!」
ド迫力のイケボでそう返す男の名は滝沢瑣吉(たきざわ さきち)。後の曲亭馬琴ですね。

曲亭馬琴(滝沢馬琴)/国立国会図書館蔵
ここではわかりやすさを踏まえ、劇中の人物としては「滝沢」と呼びましょう。
なんでも彼は入門しようとやってきたのに、京伝は「門人ではなく友人で頼む」と言ったそうです。で、滝沢は深川の大水で家をやられて友人宅に厄介になっていると笑い飛ばす。
京伝と菊は早く出ていって欲しいんでしょうね。
なにせ、こいつは後に、京伝夫妻のあることないことを記した暴露本を執筆する。そんな暴露系の元祖は夫婦生活にとって最悪の存在でしょう。さっさと塩でも撒きてえんじゃねえかな。
しかもこいつ、こうですからね。
「困っておるなら書いてやってもいいぞ、本屋ども! ガハハハハハ!」
なんなんでしょう。横山光輝漫画でしか見たことのないような笑い方をしていますね。
「よかったじゃないですか蔦屋さん、作者が見つかって」
鶴喜はそう言いながら立ち上がり、伯母に会う約束があるからと尻に帆を掛けサッサと出て行きました。
これはどうなんでえ。確かに滝沢はのちに売れっ子となりますが、同時に版元を泣かせることになります。
完璧主義者で修正がやたらと多いので、何度も何度もそれをやらせるんですね。鶴喜はそうした危険性を察知したのでしょう。
京伝の家に潜り込むまで滝沢瑣吉は何をしていたのか?その補足をしておきますと……。
滝沢は若くして家を出奔すると、医者やら狂歌師やら目指して職業を転々としました。
そして戯作者になろうと一念発起し、酒一樽を持って京伝の家に押しかけた。京伝は「絵師と違って戯作者はそもそも門人制度がない」と断り、酒食を共にすると帰ってもらいました。はなから面倒くせえ奴ですね。
ただし京伝は何かを感じたのか。それとも戯作者を休みたかったのか。
弟の京山に「あいつは見どころがある。また来たら居留守を使わず、二階にあげなよ」と言い含めたのだとか。
この時の経緯が後々まで祟りまして。
滝沢が何かあるたびに京山は「兄貴に弟子入り頼んできておいてお前はなんだ!」と怒り、「門人じゃねえ!」と返される。京伝は相手をかわすものの京山は正面からぶつかりまして、いい歳こいても延々と争うことになるのです。
なんせ京山の本に挿絵をつけた歌川国芳に対してまで「アイツの駄作にかわいい猫の挿絵つけて、売り上げに貢献してんじゃねえぞ!」と言いたげなノリで馬琴はケチをつけますからね。
『北越雪譜』の作者である鈴木牧之は、よりにもよってこの二人に「江戸で出版できないか?」と頼んでしまったため、揉めに揉めて恐ろしいことになっています。
教科書ではさらりと流され、名前が並んでいるだけの江戸文人。
実はドロドロとしたバトルを繰り広げていたんですね。
平安時代の上流文人同士のほうが、精神的に成熟しているぶんマシに思えます。『光る君へ』よりも『べらぼう』の方がややこしい世界だってのは正しい歴史認識ですぜ。
そしてこれが重要なのですが、彼はあくまで戯作者としての名乗りが「曲亭馬琴」になります。
世間によく知られている「滝沢馬琴」というのは、武家の姓と戯作者の名乗りを組み合わせたもの。本人も使ったことはあるものの不自然なのに、それがどういうわけか明治後期から定着してしまった。
本人からすると武家を継ぐ重圧と戯作者としての名乗りが混ざっているため罪悪感を刺激され、他人に使われると不快な名乗りになる。
というわけで我々は「曲亭馬琴」と表記するのが正解ですね。
ちなみに、本人たちが嫌がっていたにも関わらず定着したものとして、「滝沢馬琴」以外の有名なものが「新選組の浅葱色羽織」だと思います。
センスが悪いし目立ってしまう。ということで早々と廃止になったのに、現代のフィクションではもはやシンボル。彼らが見たら「あのダサい制服が定番だなんてそんな……」と涙ぐみそうな話でやんす。
勝川春朗登場、いきなり喧嘩になる
こうして滝沢は耕書堂の手代となったわけですが、勤務中に案思を練ってろくに仕事をせず、みの吉と揉めています。
態度がでかいわ、偉そうだわ、イケボで怒鳴るわ。最低の新人に対し、みの吉も黙っていられません。
「働け、老け顔!」
「まあそう妬むな、童顔」
大河ドラマは基本的に一人の役者が演じますので、秋になると若手俳優が増えるといった弊害が起こります。
『べらぼう』の場合、蔦重は人生があまり長くはないとはいえ、若い横浜流星さんを起用するからには年齢差が課題の一つでしょう。
子役から出ていた唐丸が、染谷将太さんの歌麿に交代した際、演者の年齢差が話題になっておりました。
しかし、この逆転は今後も続きまして、京伝、そしてこの滝沢と、後半にいけばいくほど年齢差逆転が甚だしいものとなります。
そこで「老け顔の25歳」という設定が加えられているわけですね。
曲亭馬琴は剃髪後の姿で描かれることが多いので、月代姿の青年期は貴重でやんす。
北尾重政が、そんな滝沢に呆れつつ「筆はどうなのか?」と蔦重に聞いておます。
接客業従業員としては最低ですからね。なんせ、婚家に婿入り後は、家業の接客業が嫌で潰したほどの男です。
蔦重は滝沢の原稿を重政に見せます。
毒舌で独りよがりな作風のようでいて、それでも細かく読んでいくと面白いところもあるんだとか。
「おーい、連れてきたぞ」
勝川春章が、噂の春朗を連れてきました。後の葛飾北斎ですね。

葛飾北斎82歳のときの自画像/wikipediaより引用
彼の娘である葛飾応為の映画『おーい、応為!』(主演・長澤まさみさん)が公開されました。
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家事はせず酒タバコを好み気が強い|葛飾応為(北斎の娘)は最高の女浮世絵師だ!
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応為は、蔦重より後の世代。
しかも、絵師とするつもりで親が仕込んだわけでなく、彼女が自然に描くことを覚えたタイプなので『べらぼう』では言及されないと思います。
山東京山ですら出番がなさそうですので、応為の登場は期待しない方がよいでしょう。
富本本の件で詫びつつ、そつなく自己紹介をする蔦重。
それに対し、むすっとして無愛想な春朗はこう言い出した。
「たら〜りたら〜り、たりらりら〜ん。たらたらしてやがんなぁ、旦那!」
言語センスが独特で「水も滴るいい男」と言いたいそうだと、すかさず春章がフォローをいれます。おいおい、こんな絵師は、どうやって版元と打ち合わせすんのよ。
蔦重が黄表紙の挿絵を頼むと、春朗はひったくって読み出しました。
滝沢が立ち上がり相手を見ると、横柄な態度で名乗ります。そのうえで「滝沢」は雅号ではないとアピール。脇差もさしているので、武士だと言いたいわけです。
めんどくせぇ。そのうえで春朗に文字が読めるのか?と疑っています。
ムッとした顔をして尻を突き出し、「ぶ〜っ!」と屁をこく春朗。
さらに屁をこき、紙を口に入れて頬張る様子を見て、蔦重が解読します。
「クソ以下だって言いたいのか?」
その瞬間、滝沢が春朗につかみかかりました。
「やんなら表でやれ!」と蔦重。ま、江戸っ子なんて、こんなもんすね。
ちなみに曲亭馬琴は、力士のスカウトをされたことがあるほど身体頑健。
平安貴族とは違って動物性タンパク質も摂取する江戸文人は身体頑健ですよ。
かくして大通りで喧嘩を始める二人。
こんな二人に組ませるのか?と春章は呆れていますが、仲が悪けりゃ競い合うというのが、蔦重の考えのようですぜ。
馬琴は25歳、春朗は32歳と、九郎助稲荷が説明。
32歳なのにまだこの位置ということは春朗は遅咲きですね。そろそろブレイクさせたいと春章が願うのも理解できる。
江戸期文人は健康と長生きも一種の才能であり、馬琴にせよ北斎にせよ病弱で生き延びることができなかったら、名を残せなかったかもしれませんな。

葛飾北斎の挿絵が入った曲亭馬琴『椿説弓張月』( 大弓を引く源為朝)/wikipediaより引用
なんのかんのでコンビが結成、デビューも果たす
曲亭馬琴と葛飾北斎――二人のタッグ結成が描かれ、その初作品が出ました。
本を手にした須原屋は、名義は京伝だけで中身がそうではなかったことについて納得しています。
蔦重としては、かなり京伝に寄せたつもりでも須原屋には通じなかった。そんな鼻の高い奴がよく京伝名義で出したものだと、須原屋はそっちの方を不思議がっています。たしかにそうですよね。
聞けば蔦重は、滝沢の負けず嫌いぶりを刺激したそうで。
「京伝名義で京伝よりいいものを出し、抜いてやれ」と、けしかけたんですね。
山東京伝・京山と、曲亭馬琴の因縁を深くしたのは蔦重だったのか! そう言いたくなる設定にしたんですね。
なお、蔦重が須原屋を訪れたのは、書物問屋ルートに黄表紙を載せるためでした。
再印本は売れ行きがよく、地方にも販路を広げたいのだとか。皆さんも気が向けば藩庁のあった場所の本屋を調べてみると面白いもんですぜ。
須原屋はテーブルと椅子に座り、蔦重に見せたい面白いものがあると言っています。
しかしそれが何か?まではわからないまま、場面が終わることを踏まえておきましょう。
須原屋が、今年は『狂歌絵本』を出さないのか?と聞いてきました。暗い顔になり、歌麿が栃木のご贔屓のもとにいると答える蔦重。
さらには宿屋飯盛も、本業の宿屋が役人に贈賄したとのことで江戸払いになっていました。本業にかこつけた人気狂歌師潰しか……と語り合う蔦重と須原屋。そりゃあ京伝もおよび腰になりますわなぁ。
須原屋は、お上の力の恐ろしさを語ります。
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須原屋市兵衛の生涯|史実でも幕府に屈せず出版を続けた書物問屋の意地
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黄表紙、狂歌、錦絵、ととにかく勢いが落ちているんだとか。蔦重の顔には、負けず嫌いの性分もちらっと浮かんでいますね。
ここの場面で省かれたものも補いましょう。
須原屋が蔦重に見せたかった面白いものは何か?
出版業以外の娯楽、たとえば歌舞伎も打撃を受けているのではないか?
吉原の悪影響も続いているのではないか?
このあたりですね。
それから馬琴と北斎のコンビについて。
SNSでも誤認されている人が多くみられましたが、『南総里見八犬伝』で北斎は挿絵を担当しておりません。
2024年公開映画『八犬伝』は、役所広司さん演じる馬琴と、内野聖陽さんが演じる北斎が主演と副主演を務めています。
そのため誤解が生じやすいのかもしれません。
劇中での北斎はあくまで馬琴の家に遊びに来るだけであり、『八犬伝』の絵はサラサラと描くだけでそのまま鼻紙にしてしまったりして、毎回廃棄しています。
このコンビで最も有名なのは『椿説弓張月』でしょう。
『八犬伝』について予習になるか、補習になるかわかりませんが書いておきます。
蔦重と京伝のリハビリ出版の中には『水滸伝』の日本版ダイジェストも入っています。
『水滸伝』のような唐様(からよう・中国由来)は規制されにくく、かつ売れ筋定番。
書物問屋株とその流通ルートを使えば、長崎から最新漢籍も入手しやすくなります。
『水滸伝』がこのルートで入手できても不思議はなく、須原屋が蔦重に見せた中にあっても不思議はない。
曲亭馬琴は江戸時代で最も最新漢籍の影響が大きい作家といえます。
『八犬伝』も日本版アレンジ『水滸伝』です。
京伝のアレンジ『水滸伝』の出来はあまりよくなかったようですが、馬琴がそれを見てやる気を出してもおかしくはありません。
名作が生まれる種が次から次へ蒔かれています。
江戸の錦絵は野郎まみれ、むさ苦しくなっていた
松平定信が、水野為長の報告を聞いています。
黄表紙は点数が減って真面目な内容となり、狂歌も格調高くなってきた。錦絵は相撲絵や武者絵が増え、まさに狙い通りというわけです。
定信は、よい流れだと素直に否定できない、どこか複雑な心境のようですね。
そうした状況を表すように、錦絵が拡大されて画面の中に広がります。
まぁさんこと朋誠堂喜三二が見たら「野郎ばかりでむさくてかなわないねえ」と苦笑しそうでやんすね。
彼はかつて、江戸の祭りは男だらけでむさくてかなわない、吉原の俄はそうでないと浮かれていたものです。
錦絵までこんな調子になっちまったら、そりゃあ面白くねえ人も出てきましょう。

華佗の医術で肘の切開手術を受ける関羽/wikipediaより引用

加治ヶ濱刀右衛門と関ノ戸八郎治/wikipediaより引用
一方、蔦重が、歌麿の描いていた亡妻の絵を見ていると、ていが気づいて声をかけてきます。
蔦重は女絵需要の高まりを察知、さらに大きさがいいと手応えを感じています。
女の大首絵が当たる――蔦重がそう言うと、本当に成り立つのか?と彼女は疑念を呈します。
蔦重も問題点を踏まえています。
女の絵は皆同じ表情で違いもない。それを大きくしても面白くない。だからやらなかったのだろう。
しかし、今の歌麿ならば個性も表情も出せる。描き分けもできる。女の大首絵ができる。
そして確信を込めてこう言います。
「喜多川歌麿は当代一の絵師になる」
「歌さん、やってくださるでしょうか?」
ていはまだ疑念が拭えません。彼女は技術的なことより、歌麿の精神状態を心配しているのでしょう。
「まァ、案思だな。こういうときは案思しかねえんだ。あれやこれを吹き飛ばしてでも、やりてえって思うような」
蔦重も、歌麿の精神状態について厳しいことは認めているのでした。
様式美から抜け出した美人画を
ここは重大な指摘があります。
美人画は長い歴史において概念で描かれてきたことは確かです。絵巻物の引き目鉤鼻が典型例でしょう。
美形は様式美の中で描かれ、個性は醜さの強調としてとらえられます。
『源氏物語』の女君について、美女は皆同じ顔で、末摘花のような醜いとされるものばかりが個性を強調されます。
浮世絵もそうです。
日本式の様式美だけでなく、中国の美人画も参照しつつ、一種の様式美のなかで美女は息づいてきています。
それがどこで変わるか?
ターニングポイントが喜多川歌麿です。
紛れもない浮世絵師、日本美術史、そして世界的な美術史における大転換と言える。
しかし、そんな歴史的な瞬間が、こうも苦く残酷になるとは想像できませんでした。
てっきり蔦重と歌麿が顔を突き合わせ、なんなら次郎兵衛もいて、三兄弟で楽しそうに案思をするのかと思っていたら、こうきましたか。
おていさんが不安がるのも無理はない。蔦重は、歌麿が死にゆく愛妻を描いた絵を見て、商売のことを考えています。
まだ若い頃の蔦重は、女郎の体や真心までも値をつける吉原にやるせなさをも感じていました。
切り売りしちゃならねえもんで飯を食う。だからこそ忘八であるとはいえ、少しでも救いを見出したい。そう奮闘していました。
そんな蔦重が、最愛の義弟が描いた妻への愛をみて、それの値踏みをするようになっちまった。
こんな残酷な堕落がありますか?
なんと恐ろしいのでしょう。人の誠意を、愛を、そんなふうに切り売りしてよいものなのでしょうか。
歌麿は栃木で歓迎を受けています。
招いた豪商たちは歌麿の絵に大満足。まるで東照宮のようだと喜んでいます。さらには住職が、寺になまめかしい弁財天でも描いて欲しいと言い出しました。
自分はなかなか罰当たりだがよいのか?と返す歌麿です。
留守番をしているつよが、優しい目で歌麿の絵を見ています。
そこへ歌麿が戻ってきました。
つよが、前みたいな絵、つまりはおきよさんのような絵は描かないのかと尋ねます。彼女は、商売っ気抜きにしてああいう絵が好きなんですね。
でも歌麿は描けないという。思い出しちまって描けないそうで、もう描かないと迷いながらも答えます。
江戸の「会いに行けるアイドル需要」
このあと蔦重に切り替わり、九郎助稲荷が「そんなこともつゆ知らず」というのが残酷ですね。
蔦重は滝沢の案内で市中の美人詣でをしていました。
一人目は難波屋おきた。会いに行けるアイドルとして、見守りたい男が集まっていると滝沢が言います。
そして余計なことを言う。
「まぁ、モテない男たちだがな、ガハハハハハ!」
そしてこうだ。
「おうおきた、来てやったぞ! うん、愛(う)い奴め! まぁ、俺への気持ちがバレたらまずいからのう!」
ウゼエ……ウザさが限界突破するぜ。でも、こういう若き日の曲亭馬琴が見たかったんだよな。そりゃおきたも顔が引きつるわな。
次は高島屋おひさ。煎餅売りです。
なんでも煎餅は大したことがないのに、客が殺到しているそうで。まぁ、かわいいもんな。
「ようおひさぁ!」
相変わらずウザ絡みをする滝沢。しかし、おひさは負けちゃいない。
「いい加減にしないと、その顔に醤油塗って焼いちまうよ! 買いたいならきちんと並びな!」
そう鬱陶しがられても「白木屋のおつねなどもいいぞ」と満足げな滝沢で……実はこれが、なかなか残酷な対比となっていますね。
滝沢は若いアイドル店員に粘着する非リア充。
「モテない男ばかり」と笑っていましたが、その中に彼自身も入っている。
一方で山東京伝を見てみましょう。
歌舞音曲に秀でた天女とされる吉原女郎の菊が愛妻であり、相思相愛です。
菊が先立たれた後も、愛情の濃い女郎出身の妻と再婚します。
まぁ、江戸一のリア充ですね。
このことを踏まえながら劇中に戻りまして。
滝沢に「会いに行けるお江戸アイドルツアー」をしてもらった蔦重は、特にデレデレすることもなく、今は巷の美人需要があると納得しています。
「不景気で吉原などにはいけぬ。その点、巷の美人はタダで見られる! 巷の美人を揃いもので出せば大受け間違いなしだ!」
吉原にいけず、岡場所で病気をうつされて闘病経験がある。そんな滝沢さんが言うと説得力がパネェ!
そして、歌麿にそれを描かせる段階まで蔦重があっさり進むところが、これまた恐ろしいところでして。
以前の蔦重ならば、滝沢の言い分にハッと気付かされたかもしれませんぜ。
蔦重は初回で、吉原が売れないことを危惧して田沼意次と直談判に持ち込みました。それが巷の美人が吉原の客を奪っていることを、ここではまるで気にしていないように思えます。
ああした美人店員には今で言うところの「裏オプション」もある。いわば吉原にとっては商売仇です。
こうなると、定信の政策に対抗するはずの理論「吉原を救う義」も極めて怪しくなってしまう。
すると店の奥から次郎兵衛の声がします。
次郎兵衛は人相見をしているようで、ていを「執念深き相」だと鑑定していました。
なんでも「天下人の相」だそうで、ま、当たるもんじゃねえってことでいいんじゃないすかね。今ブームの鑑定「相法」なのだそうで、学問流行りにより「相学」とも呼ばれているとか。
今でいうところの「人相学」でやんすね。
蔦重は「これだ!」と閃きます。
そのころ歌麿は庭先で虫を見つめていました。
「歌麿は赤ん坊のようなものだ」と語っていたつよとしては、やっと好き嫌いを言えるようになって嬉しいのでしょう。
石燕の教えを思い出す歌麿。
彼には命の個性を見抜く力があります。
「絵師は三つ目の目に見えるものを描くんだって。俺に見えるもんはこれかなって思って。命を映しとりてえって……」
そう口にしたところで、歌麿の脳裏には蔦重の言葉が蘇ります。
「お前は鬼の子なんだ! 生き残って命描くんだ。それが俺たちの天命なんだよ」
歌麿がしばし気の抜けたような顔になると、そこへ蔦重の来訪が告げられます。
歌麿先生、大首美人を描いてくだせえ
蔦重と歌麿が向き合います。
蔦重はしおらしく謝るものの、歌麿はこう返します。
「鬼の子に何の用です?」
蔦重はそんな態度をつきたての餅のようだと茶化します。いや、だから、ほんとそういうところですよ! 茶菓子に餅が出てくると、さらに調子こいて冗談を続けますからね。
歌麿も、つきたての餅は共食いだと返していますが……つよが異変を察知したのか、軽く蔦重をいなしています。
蔦重は頭を深々と下げ、江戸で錦絵を出して欲しいと頼み込みます。
かつて、幼い唐丸に約束した当代一の絵師にする好機がやっと到来しました。
「私のためのように言いますけど、つまるとこ、金繰りに行き詰まっている蔦屋を助ける当たりが欲しいってだけですよね? 私を売り出すことで、もう一度、蔦重ここにありって見せつけたいってのも」
「まぁ、けど、お前だっておきよさんのためにちゃんとしてえって言ってただろ」
「おきよのためにそうなりたいってのはありました。けどおきよが亡くなった今、もうその気持ちはねえです。当代一の絵師を出したいっていう蔦重さんの夢を叶えてえ気持ちももうねえんで関わる理由がねえです」
蔦重は心を閉ざした相手を前に認めるしかない。
そこで仕切り直し、一本屋としての気持ちをぶつけてようと歌麿の前に進んできます。そして描いて欲しい絵を見せてきます。
歌麿が描いたおきよの絵。そして相学の本。それにひっかけていろんな相の女を描く。そんな揃いものを描いた欲しい――そのためにも女のタチを描く絵師、女らしい一瞬を捕まえられる絵師がいる。
それができるのは喜多川歌麿だけだ。そう理由を並べます。
ほー、情けに訴えても効かねえから理詰めできたか。
「もう、女は描かねえって決めてんで。おきよが喜ばねえと思うんで。おきよは……ずっと自分だけを見ていて欲しいと思っていたから」
「そりゃ生きてる間はってことだけだよ」
「なんで……なんでそんなこと言えるんだよ! 蔦重はおきよのことなんでなんも知らねえだろ!」
怒る歌麿に対し、蔦重はこうきました。
「知らねえよ? けどこの世でいっちゃん好きな絵師は同じだからサ。お前の絵が好きな奴は、お前が描けなくなることは決して望まねえ。これは間違いなく言い切れる。贔屓筋ってナァ、そういうもんだ。おきよさんは幸せだったと思うぜ。何十枚、何百枚、何千枚って、大好きな絵師に、亭主に、こんなふうに描いてもらってよォ。俺がおきよさんだったら草葉の陰で自慢しまくるぜ。俺の夢だなんだのなしでいい。だからここはお前の心一つで、お前が俺とこれをやりてえかやりたくねえか、それだけで決めてくれ」
感動的で、絵の中のおきよも微笑んで見守っているようで、歌麿の顔も少し氷が解けたように思えます。
蔦重は歌麿の心を掴んだ
しかし、どこか不穏なBGMが流れています。
あっしにゃァ、これが地獄の釜を開けたように思えなくもねえぜ……蔦重は本屋としての嗅覚ではなく、己の愛で歌麿を縛りました。
そうしてお前だけを愛すると誓っておいて、このあと、東洲斎写楽に目を向けたら歌麿はどう思うか?
歌麿は見抜いている。
夢だのなんだの言うけれども、その実、蔦重は己が敏腕プロデューサーとして持て囃されたいからそうしているということを。
『光る君へ』が去年の大河でしたが、今年も『源氏物語』を思わせる展開ですぜ。
光源氏は紫の上をこよなく愛していながら、老いてきた身でありながら若い妻の女三宮を正室に迎えます。
まだ若い頃は紫の上を完璧な妻として育て上げることができたものの、女三宮相手ではそれもできない。
光源氏は女三宮が劣るからだと他責する。そして紫の上を称賛する。
しかし当時の感覚からすれば、皇女である女三宮を尊重するのは当然という意識もある。
さて、これがどう『べらぼう』と関係あるかって話ですがね。
蔦重が光源氏で、歌麿が紫の上だとすりゃ、写楽は女三宮。プロデュースしきれないんです。
謎の絵師でもなんでもなく、育成失敗枠であるのが写楽になると見えてきます。
ではなぜ世間は写楽をやたらと持て囃すのか?
日本が脱亜入欧を目指していたころ、西洋人が大絶賛したからというのが原因の一つでしょう。
権威に目が眩んで過大評価する点においては、皇女の血統ゆえにありがたがられる女三宮の如しってことでさぁ。
ま、今年の大河は実に苦い結末になりやすぜ。
女三宮降嫁の場面をあなたは素直に喜べますか?
『べらぼう』で写楽の絵が翻る場面も、同じ緊張感と暗さが漂うことでしょう。
歌麿、江戸に戻る
山東京伝は、蔦重が歌麿を連れて帰ってきたことを鶴喜から聞いて、明るい声音になっています。
もう蔦重に粘着されたくないんですかね。
なんでも蔦重は、絵のためのモデルとなる女性も集めてきているとかで、画期的な試み。
これまでの概念や吉原から出て、市井の女を描くという転換点を感じますぜ。
絵心ある京伝ですら、そりゃ一体どういうことかわからない。鶴喜は新しい仕掛けはあると確信しています。
鶴喜はここで相手の気持ちを読み解き、蔦重が歌麿に精一杯で、いなくなったことすら気づかれず、静かに身を引けるかもしれないと言います。
菊も、これで心置きなく真人間になれると語りかけます。
笑いつつ認める京伝ですが、鶴喜がこうも言い切りますかね。
蔦重はできあがった作品を見て、その写実性は誉めつつも、女絵として綺麗であって欲しいと注文をつけます。
写実性か、美化か――浮世絵における選択といえるもので、これで失敗した絵師もいます。
典型例が歌川国芳で、リアリティを求めすぎたシリーズ『誠忠義士肖像』が売れず、打ち切りとなりました。

歌川国芳『誠忠義士肖像』/wikipediaより引用
そしてこれまたネタバレでやんすが……写楽の作品を評した絵師のコメントはあまりありません。
例外が歌麿で、欠点ばかり強調する点を酷評し、自分とは違うと厳しく語っております。
これは写楽自身というよりも、『べらぼう』では蔦重への怒りとなってあらわれてきそうですね。
俺の時は綺麗に描けと言っておいて、あいつには欠点を強調しろという。どうなってんだ? そんな不信感があると思えます。
そして歌麿が絵を描く場面では月が見える。
月は時を超えて人を見下ろす象徴として、東洋の文化芸術では用いられます。
さて、この月は何を見ているのか。
歌麿と案思を練る蔦重
歌麿ができあがった絵を蔦重に見せています。
蔦重は「よいしょ」と声をかけて立ち上がります。立って座るとき、いちいち「よいしょ」と言うようになりました。
かつては飛ぶように駆けていた蔦重も、不惑を過ぎて栄養素が偏る不摂生も祟り、体が重たくなっているのでしょう。
蔦重は、おきよさんの絵から一枚探し出してきます。
振り返った一瞬をとらえた絵――蔦重は彼女が何かを気にして振り返ったように思えると指摘します。
鳥でも飛んでいたのか。見知った人でも見つけたのか。それを気にすることが購買欲に繋がると自分の考えを語るのです。
このあと絵に向かう歌麿の心に寄り添うように、優しく透き通ったBGMが流れます。
筆を通して愛を紙に注ぎ込むように、描く歌麿。
その後できた絵を見て、蔦重は笑い出します。
しどけなく髪を乱し、胸をはだけた婀娜っぽい女の絵を見て、浮気相手と軽口を叩いているのか?と蔦重が微笑む。
歌麿としては、浮気相手と一緒にいるところを見られて知り合いに平気の平左で嘘をついている場面らしい。
なんでまた、浮気しちゃった女を描いてんだか。歌麿は何を思ってこんな女を描いたんだい? おきよさんとは違うだろ。
蔦重が誉めつつ、もっと「相らしさ」を出すようにいうと、歌麿はわがままが過ぎると返します。
甘えるように、歌麿先生ならできると思っていると言いつつ、煙管を吹かす蔦重。
その手元を見ると、歌麿の顔にかすかな笑みが浮かぶ。
そして小道具を使うことを思い付きました。
小道具を使えば人柄が出やすい。だからどうして、こんなくたびれたおっさんが煙管を吸うところをみて、美女の仕草を思いつくんだい?
蔦重も理解し、入銀も取れるかもしれねえと誉めます。小道具の宣伝にもなるってわけだな。
そう返されて歌麿は拗ねたように「そこ?」と言い出す。蔦重を見て気付いたのに相手はそうじゃないんだもんな。
「じゃ、誰が何使うか考えようぜ」
そう言われながら肩を組まれかけて、歌麿は身をこわばらせます。そして可憐な乙女のように俯き、肩が凝ったと苦しい言い訳を……。
「そりゃいけねえ」
蔦重が肩を揉もうとすると、歌麿は身をくねらせてこう言います。
「そういうの、よしてくれよな! いや……あんまり馴れ馴れしいのもよ」
「ああ、悪い。もう歌麿先生だしナ」
するとそこへつよに連れられて鶴喜がやってきましたぜ。
山東京伝は真人間になるよりモテたい!
なんでも京伝が煙草入れの店を始めると言い出したんだとか。
江戸のインフルエンサービジネスってやつですね。戯作者として売れっ子で、おまけに愛妻は吉原女郎とくりゃ、江戸一リア充としてブランドを売り出せるんでさ。
そしてその金を集めるために、江戸のクラウドファウンディングこと「書画会」を開催するそうで。
当時のセレブがサイン入りグッズを売り、酒食を楽しむイベントです。
京伝のことも気になりますが、熱っぽい目で蔦重をチラリと見る歌麿と、その様子を見守るつよも気になります。
そしてその書画会へ、真人間になったとぼやく京伝を案内してゆく鶴喜と蔦重。
これが山東京伝、北尾政演最後の日だのとなんだのと言いつつ、廊下を歩いてゆきます。
「皆様、山東京伝先生のお出ましにございます」
そうして襖を開けて入ってゆくと、歓声が上がります。
「よっ、京伝先生!」
「日本一!」
「色男!」
そこに待っていたのは“モテのスコール”でした。
京伝はすっかりその気になり、愛妻の奏でる三味線にあわせて「すがほ」を唄い出します。
京伝にはクリエイター伝説があり、彼が生み出した唄だそうですぜ。
ちなみに「天麩羅」の語源が京伝という説を弟の京山が書き残していますが、これは疑わしいものとされておりやす。
艶っぽい生歌を聴き、客は「待ってました!」と声をかける。
朗々たる歌声に身な惚れ込んでしまう。その熱気に飲まれ、京伝は踊り出す。後の式亭三馬こと太輔がサインを求めておりやすぜ。
サラサラと艶次郎サインを描いて得意げな京伝。こりゃやめられねえなぁ、江戸一パリピのモテライフはよぉ!
人は欲から逃げられない
モテモテの戯作者稼業は簡単にはやめられない!
結局、京伝は、煙草屋と戯作者の二足の草鞋でいくことになりました。
すっかりのせられてしまった、くすぐり上手で嫌になると歌麿に顛末を語りながら、欲があるから人は動くんだとも続けます。
モテてえ欲。描きてえ欲。やめると思ってもそれにやられちまうんだと。
「歌さんはどうだい?」
そう振られて歌麿は言います。
「欲なんて、とうに消えたと思ったんだけどなァ」
なぜこの夫妻が古川雄大さんと望海風斗さんであるのか、十分に発揮された場面でしたね。
あまりに素晴らしい。説得力のある場面でした。
と、誉めておいてなんですが、ここで“モテのスコール”どころか”非モテのヘル“こと滝沢、のちの曲亭馬琴のことでも。
馬琴はこのあと、蔦重と京伝の紹介で結婚します。
しかし夫婦仲は最悪で、そのせいか京伝夫妻のスキャンダルを暴露し、弟の京山を激怒させます。
京山を決定的に怒らせたのは、京伝二度目の妻を京山が虐待死させ、遺産を乗っ取ったような誇張まで馬琴が書き散らしたからでした。
隠キャ馬琴は、書画会は文人の堕落、パリピのやることだと非難したものです。
しかし、そんな馬琴が金策のために書画会を開催すると、京山は「ざまあみろ!」と盛大に言いふらしたとか。
てなわけで、江戸期屈指の「リア充爆発しろ」攻撃はあの曲亭馬琴の仕業です。
本当に馬琴はしょうもなく、『べらぼう』の描写には満足しています。普通の人はまず友達にしたくねえ。近づきたくねえタイプだと思いやすぜ。
そのあと場面が切り替わって、ていはこう言います。
「男色の相? 歌さんがですか?」
「うむ、男色の相だ。あれはまず間違いない。俺は随分そういう輩を見てきたからな」
って、滝沢、おめえ何を言ってんだい? 髪を結っているつよも、わざと強く引っ張って滝沢を苛立たせています。
つよは何もかもお見通しかい? 以前、歌麿は蔦重の念者かと聞いていたし。
そして蔦重のもとへ、村田屋から知らせが届きます。
須原屋に何かあったようです。蔦重にも見せていたおもしろいもの――ロシア関係の書籍が咎められたのでしょうか。
MVP:喜多川歌麿
またかよ。これはもうしょうがねえんです。
喜多川歌麿は、世界的名声でいえば、今まで大河ドラマで出てきた人物でも上位に入ることでしょう。それほど歌麿の美人画は有名です。
染谷将太さんが演じた人物でも、織田信長よりも喜多川歌麿の方が世界規模でみたら重要かもしれません。
そんな世界的な絵師である歌麿を表現するとなると、その美人画の神秘を追い詰めねばなりません。
今回は美人大首絵に向かう過程が描かれているわけですが、愛情の糸がパズルのように明かされてゆきます。
これが実に複雑な構造で……。
倹約令で美女への欲求が吉原から市井へと移ってゆくこと。人相学の流行便乗。ここは蔦重プロデュース力が光ります。
そこへ歌麿の画力と、さっと一振りした魔法が見えてきます。三つ目と表現される命の輝きを見抜く目。そして愛情です。
歌麿の絵は、恋する心が描かれていると評価されます。
こちらを見つめる美女は、目があったら自分と恋に落ちてくれるような、そんな暖かい魅力がある。
生々しさ、純粋さ、可憐さ。そういうものが見るものの心を掴んで離さないとされるのですね。

『ポッピンを吹く娘』喜多川歌麿/wikipediaより引用
別の浮世絵師と比較で深掘りしてみましょう。
歌麿のような純粋な恋心でなく、淫欲が脈打つとされる渓斎英泉です。
映画『おーい、応為!』では爽やかイケメンにされていますが、浮世絵師中でも屈指のエロスの伝道者。
極めるあまり女郎屋経営にも乗り出したほどですので、違和感があるっちゃそうなんです。
その渓斎英泉のいやらしさをこのあいだ身をもって感じましたぜ。
古本屋にある英泉の複製美人画を見たとたん、あまりにいやらしくて目を逸らてしまい、棚に戻してしまいました。
英泉は当時から画力に癖が強すぎて難ありとされたと言いますが、そういう技術論を超えた圧倒的なエロスがある。生々しいんですね。
これは確かに素晴らしいと思います。

渓斎英泉『當世すかたのうつし画 茂門佳和』/wikipediaより引用
そして「愛や淫欲ではないノイズが入る」とされてきたのが月岡芳年です。
彼の美人画は人気があり、永井荷風も絶賛。
じゃあ、愛でも淫欲でもないノイズとは何かというと、その典型例として彼の代表的な美人画『風俗三十二相』「うるささう」(うるさそう)をご覧ください。

『風俗三十二相』「うるささう」/wikipediaより引用
襟が猫とおそろいであるこの少女は、ともかく猫が好きなんだなぁと伝わってきますよね。
猫のほうも少女を「うるさいなあ」と思いつつ、受け入れる気持ちであることが伝わってきます。
芳年自身も白猫を可愛がっていたそうですので、感情移入しているのでしょうか。
確かにタイトル通りうるさそうではあるけれど猫に目がいってしまう。そのためか、近年は猫の絵としての展示が増えております。
猫はかわいい、それはそれでいい。でも、美人画なら猫に関する気持ちでなく、鑑賞者への恋や欲求を入れようよ。それ以外はノイズだよ。そんな評価もなされてしまうわけですね。
歴代浮世絵師の中で、最もその絵の中に、純粋可憐な恋心を閉じ込めてしまう喜多川歌麿。
その魔法をいかにして描くのか。
本作では、そこが大きな課題であったことでしょう。
それがなんと蔦重への秘めた恋というかたちで示されてしまったのです。
喜多川歌麿のモデルとなった美女が、動く歌麿美人だというのは理解できます。当然といえる。
しかし、歌麿自身が照れ、戸惑い、尽きせぬ思いに身を焦がし、目を伏せる。
その姿が歌麿美人のように見えてくるとは、一体何を見せられているのでしょうか。
べらぼうだぜ。とんでもねえモンを見せられちまってる。
世界的な名画に、こんな重くて痛々しい愛の物語を載せてこられて、もうどうしたらいいかわからねえ。本当に困惑させられてしまいます。
総評
今回もまた重要です。出番の少ない松平定信ですが、結果的に焼畑農業式で文化に寄与してしまっていることも興味深い。
今週出てきた新世代の曲亭馬琴にせよ、葛飾北斎にせよ、荒々しく雄大な東国文化形成に大きく寄与しました。
例えば『南総里見八犬伝』。ドラマを見てきて、赤本、青本、黄表紙が出てきましたね。
こうした作品には今の我々がこよなく愛するヒーローバトルものがありません。
桃太郎のようなおとぎ話か、ラブコメか、風刺か、そういう話ばかりでしたよね。
強い奴らが集結して戦う――そんな少年漫画でお馴染みのプロットは当時まだなかった。曲亭馬琴が『水滸伝』をアレンジして作り上げていったのです。
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べらぼう時代に開花した娯楽作品の王者『水滸伝』圧倒的存在になるまでの歴史
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武者絵も重要です。
武者絵は北斎に私淑(正式に入門関係にはならないが、リスペクトすること)していた歌川国芳が一気にレベルを引き上げました。
国芳の武者絵は現代のストラテジーゲームの武将グラフィックにも連なりますので、まさに今の文化の大先輩と言えるでしょう。
『ばけばけ』繋がりで書いておきますと、妖怪画は『べらぼう』の範囲からは外れます。
おどろおどろしい絵が本格的に広まるのは、鶴屋南北の怪談ブームと連動してのことであり、ちょっと系統から外れますね。
こうして新時代の流れが見えてくる一方、蔦重と歌麿の儚い関係の終わりが見えてくるところもなんとも興味深い。
蔦重が歌麿を「いっちゃん好きな絵師」と呼ぶこと。
歌麿が、蔦重は自分の名誉欲のために絵師を必要としていると見抜いていること。
そして歌麿が、蔦重を喜ばせたいという欲で生きる力を取り戻してゆくこと。
全部、東洲斎写楽がらみで崩れていくことを前提として組み立てられているようで、あまりにおそろしさに背筋がゾッとさせられてきます。
そんな中で最後の破滅要素は「逆張り」だと私は考えています。
蔦重が歌麿に、もっと絵として美しくして欲しいと要望を出すこと。
これに対し、蔦重は写楽には、むしろコンプレックスを刺激するような描き方をさせる。いわば逆張りです。
純粋に対象を愛するのではなく、逆張りという邪念を噛ませたらあとは破滅あるのみ。このドラマはそう突きつけたいのではないか。
写楽に打ち勝つ歌川豊国は、役者の魅力を存分に引き出す正統派です。
ここから先は蔦重と、別の大河ドラマへの罵詈雑言になるので嫌な方はここでお別れです。
曲亭馬琴が出てきたタイミングで書こうと思っていた蒸し返しをここでします。
『どうする家康』では、女装した井伊直政が徳川家康を殺そうとする場面がありました。
あれは演じる坂垣李光人さんの美貌を活かしてのことか、斬新だと見做すような褒める記事もあったものです。
ところがあれはプロットとして通じない。直政には危険を犯してまで家康を殺す動機はありません。むしろ家が苦しい状況の中で、格上の家康を殺したら破滅しかねません。
しかし、あっしゃァ、徳川家康に井伊再興を賭けた『おんな城主直虎』の逆張り設定に思えました。
ついでにいえば女装して相手を襲うといえば、『八犬伝』の犬坂毛野が有名です。そんな古典を焼き直して自分が一から考えたと言いたげな制作姿勢にはうんざりさせられたものでした。
この不満は、映画『八犬伝』において坂垣さんが見事な犬坂毛野を演じる姿を見たことでやっと晴れたものです。

歌川国芳『犬阪毛野・岩井紫若』/wikipediaより引用
あの大河ドラマは数年前の戦国大河の逆張りばかりでした。
徹頭徹尾、下劣な足利義昭や明智光秀は『麒麟がくる』における高潔で慈悲深い像の逆張りに思えました。
そもそも徳川家康をナレーションでキャンキャンとした裏声で「神君!」と誉め、かえって貶めるような描写も逆張りと言えばそうでした。
そんな逆張り軽薄野郎には地獄を見てもらわねば気が済まない。そんな強い信念すら時折感じてしまうのが今年の『べらぼう』でやんす。
戦国乱世なら城に枕して討ち死にが破滅でしょうが、泰平の世ではプライドがへし折られ、軽蔑されて失敗することだって十分悪夢です。
クリエイターをプロデュースすることで名声を得る。
そんな誰かの才能に乗っかって満足感を得ている蔦重の場合、自分の売り出したクリエイターが無惨な失敗をすることこそ討ち死にでしょう。
その酷い因果応報は確実に迫ってきています。
ついでにいえば『ばけばけ』は『どうする家康』で苦い目を見たと思われる、北川景子さんや坂垣李光人さんを魅力的に見せています。
2023年を反省したいという意志を感じるのは私だけでしょうか。
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【参考】
べらぼう公式サイト






