東洲斎写楽の作品/大河ドラマ『べらぼう』で話題の写楽がついに登場・その作品『三代目大谷鬼次』と『三代目澤村宗十郎』

東洲斎写楽『三代目大谷鬼次』と『三代目澤村宗十郎』/wikipediaより引用

べらぼう感想あらすじ

『べらぼう』感想あらすじレビュー第45回その名は写楽

2025/11/24

松平定信から一橋治済に対する「仇討ち計画」を打ち明けられた蔦重。

帰りを待っていたおていさんに、源内がいたどころではないと説明します。

だとすれば、あの作品は誰が書いたのか。

当然の問いかけに対して狐だと誤魔化そうとするけれど、てい相手に誤魔化しは通用しません。

蔦重は全てを説明することになります。

📘 『べらぼう』総合ガイド|登場人物・史実・浮世絵を網羅

 


定信の仇討ち計画

松平定信から仇討ちの提案を持ちかけられたとき、蔦重は苛立ちました。

てっきりあの作品は源内作かと思ったら、三浦庄司の話を元に定信が書いたものだったのかよ――。

蔦重は、あくまで源内先生に会いにきたのであって、彼らに用は無いとして帰ろうとします。

源内の仇討ちをしたくないのか?と定信が持ちかけますが、蔦重は「源内にあったこともねえくせに!」と怒鳴ります。

定信は、蔦重が本物の陰謀論者であったことに驚いているように思えます。まぁ、そりゃそうですわな。

松平定信の肖像画

松平定信/wikipediaより引用

それでも悪党成敗したくはないか?と迫ってくる柴野栗山。

長谷川平蔵や三浦庄司、高岳まで天誅を下すと言い出して、もはや大河でなくて民放時代劇みてえなノリになっちまってますね。

蔦重は真面目に「市井の本屋がそんなことはできない」と答え、強引に帰ろうとする。

と、定信が潜ませていた武士が一斉に襖を開けました。

なぜ、そうまでして蔦重に協力させたいのか?

いったい何をやらせるつもりなのか?

定信は、市井に源内生存説を流して欲しいのだそうです。

今回のシーンを振り返りますと、蔦重の怒り方からポピュリスト的ないやらしさが理解できて来ました。

後に蔦重は、定信から莫大な金も受け取ります。

権力と結びついて利益を得ているとも言える。清廉潔白とは言い難い。

それでも強い口調で権力者に刃向かえば、スカッとする人は一定数いるでしょう。

理詰めで話し合うよりも、ギャアギャアとキレる姿を見せつける方が支持を得られることもあります。

ポピュリストの手口でさあね。きっちり手続きを踏んで権力と対峙する人よりも、やたらとイキリ散らすパフォーマーの方がウケは狙える。

最近の蔦重にはそんな狡猾さが見え隠れして、どうにもうんざりさせられるのです。

 


パラレルワールドの物語

それにしても……。

どうしちまったんでえ、定信!

確かに版元と公儀の攻防は史料に残りにくいので、ある程度の潤色はできまさぁ。

しかし、これだと定信が大馬鹿者と言いますか、大変らしくねえことをしていませんか?

こんな復讐劇はとにかく隠密にやらねえとまずいでしょう。それなのに口も軽そうで謀略に向いていない蔦重を巻き込むのは悪手も悪手。

先週から急展開を迎えた本作の実質的最終回は、やはり前々回の43回と言えますな。

皆さんも、なんだか『べらぼう』の世界観が急に変わった気がしませんか?

今はもうパラレルワールドの物語と思うことにしやす。

蔦重を無理やり巻き込む動機が、定信自身というよりも、作劇上の都合、主人公補正にしか見えず、しらけることこの上ないのです。

なんせ蔦重は周囲をろくに確認せず、帰宅するなり、ていに全部語りますからね。隠密に全く向いていない。

ていも早産のあと、どうにも知略が低下しているのか、夫に対してろくに反対もしないし、懸念事項の確認すらしない。

「悪党を討つ」といっても、相手が誰かすら確認してませんからね。

しかも、陰謀論者らしいノリでどんどん盛り上がってゆく。

陰謀論にもスペクトラムというもんがあるんですが、あまりに吹っ飛んでる。こうしてどんどん悪化するんだな、という感想を抱いてしまいますぜ……。

何がひどいって、十返舎一九を巻き込む前提にしているんですよ。

夫妻は当事者の意見を確認しないで話を進めますよね。滝沢瑣吉が出てこなくなった理由がわかります。

婿入りもあるっちゃそうですが、それだけでもないとみた。理詰めでないと、あいつは納得しねえんですよ。こんな杜撰で馬鹿馬鹿しい計画には、まず乗ってこねえどころか、否定しかねませんからね。

夫妻は乱世舞台の大河なら、初夏には謀殺されてしまうでしょう。

それに、実在した版元よりも迂闊な気がします。

江戸時代後期、歌川国芳の風刺画を出した版元なんて、そりゃもう規制に対して用意周到でした。

本作は、43回放送まで江戸文化を肯定的に描いてきたのに、最後の最後で思い切りバカにしてきた気がする。いったい何を見せられているんでしょう?

 

江戸三座も封鎖された

九郎助稲荷が「江戸三座」の閉鎖を語っています。

江戸三座とは、幕府から興行の許可を得ていた「中村座・市村座・森田座」のこと。

歌川広重『東都名所 芝居町繁榮之圖』

歌川広重『東都名所 芝居町繁榮之圖』 /wikipediaより引用

普段は人で賑わっているはずの町並みが侘しく、なんだか蔦重もおかしい。

話がつながっていません。前回、役者絵が少なくなっていることに蔦重は気づいている。

となりゃ、江戸三座の締め付けやら何やら、もっと気づいていてもよいはず。何かうまくつながっておりません。

そこには長谷川平蔵と仙太もいて、葵小僧の話を始めました。

彼ら盗賊団の装束が芝居町に頼んだものだったそうで、しかもそれを注文していたのが“武家に詳しい女”だったというのです。

この女とは、大崎のことですが、江戸城大奥といった警備が厳重な場所にもいた彼女がそれほど気軽に出掛けられましょうか? 代わりの人を派遣してもよいと思います。

それと平蔵、誰が聞いているかわからねえ蕎麦の屋台で、ンなこと大声で喋ってんじゃねえぞ。

どういうセキュリティ意識なんでえ! カフェで機密情報入りノーパソおっ広げて仕事して、画面ロックせず離席する。そんなダメ刑事の大江戸版じゃねえか!

あとで始末書提出、情報研修受講な。ったく、こりゃセキュリティ担当者、情シスの精神が相当やられてんじゃねえか?

実は世の中には特殊な店ってものもあり、関係者以外が誤って注文すると緊迫感か溢れるような、偽装をしているところもなくはない。しかし、門之助がフラッときて注文できるからには、どうもそういう仕掛けもなさそうですね。

以降、蔦重と門之助の会話は、なんだか説明的で、三座が潰れたから曽我祭をするという話に持っていかれます。

そうした展開だけでなく、背景もエキストラが少ない。こういう場面では台詞はなくとも、役者とわかる人物が背景にいたものですが、会話する二人をアップにしていて背景が目立ちません。

『べらぼう』の魅力はカメラを引いて、動く浮世絵のような世界観まで見せることにあったはず。その魅力が失せちまっているようにも感じてしまう。

何がなんでもド派手に盛り上げ、写楽という花火を打ち上げたい。祭りにするという意図はわかりやすぜ。

しかし、どうにも強引でねえ。

三座閉鎖で重要なのは、三座と契約関係にあった勝川派と関係が切れて、役者絵という最大の売れ筋が独占状態でなくなったってこと辺りだと思うのです。

その辺りの説明を前回にしたということにしたいのでしょうが、説明不足ではないでしょうか。

史実をつなぎ合わせてプロットにするのではく、作り手の都合に史実を無理矢理当てはめるような、そんな歪みが出てきているように思えるのです。

その辺を全部いちいち説明される蔦重も、若けりゃともかく、そんなこと知らんかったのかと思ってしまうんです。吉原しか見てなかったんですかい?

ここで久々の熊吉と八五郎の妄想へ。

役者絵を見て「平賀源内だ!」とはしゃぐ二人が脳内再生されますが、これもおかしくないですかね。

平賀源内/wikipediaより引用

源内に画才はない。絵師として名を馳せているとは言い難い。

それなのに見た瞬間そういう反応になるでしょうか?

誰もが皆、蔦重のように源内に対して思い入れがあるわけではない。若い人は知らないでしょうし、知っている層も「ああ、あのインチキだったエレキテルの山師か」となってもおかしくはない。

平賀源内の知名度は、後世で高くなったようなところもあるわけです。

要は業績が中途半端なんですね。

「江戸のダ・ヴィンチ」と言われても、当時の江戸っ子はダ・ヴィンチのことなど知りませんから。

 


「プロジェクト写楽」

さて、そんなわけで『プロジェクト写楽』の始動です。

やっちまいましたね……写楽の正体でびっくりさせる展開って「これゼミで習ったやつだ!」となるパターン。

今どきこれで意外性を狙うんですか? 一体いつの時代なんでしょう? プロットを読むだけで悪い意味で鳥肌が立ちます。

写楽の正体で驚かせるのって、それで史実より面白くなければよいのでしょうが、そうならず陳腐にすらなるのが困りものなんですよ。

しかも「思いっきりふざけたくねえですか?」と呼びかける蔦重はなんなのでしょう。傾いた耕書堂を支えるみの吉あたりの気持ちを考えると、胸が痛くなってきます。

学問吟味試験勉強中の太田南畝は早速呆れています。

そのふざける内容が、役者絵を源内風味で描くんだそうで。

勝川春章の没後、役者絵がパッとしないという事情も語られます。

その恩人への追悼もなしに、それを逆手に取れると言い出す蔦重があまりに浅ましいと言いましょうか。

そしてこれも浮世絵の謎の一つであり、史実の蔦屋重三郎に対する評価を難しくする点なのですが、このころはまだ勝川春朗、のちの葛飾北斎を起用しないということでしょう。

かつて写楽の正体については「葛飾北斎説」もあったものでした。

そんな北斎の才能を見落とすという蔦重のセンスのなさは、ドラマでも再現されているといえばそう。

しかも絵心のない源内を持ち出してくることで、決定的にダメなヤツになってしまいます。

未来に輝く才能は見通せず、己が若い頃に培ったノスタルジー頼りだと示していることですから。

定信の依頼だからだという言い訳は用意されているといえばそう。しかし、田沼意次までならともかくとして、ああもやりあった定信の走狗になるというのも、どうにも冴えない話ですな。

そんな雑な思いつきに、恩着せがましく皆を乗せようというのもよくわかりません。

そしてここで、蔦重が源内の蘭画『西洋婦人図』を見せます。

さらには絵に描いた餅をペラペラと語りだす。

絵が売れる。話題になる。芝居にも人が戻る。しかも描いたのが死んだはずの平賀源内だ!

なんでしょう、このオカルトを売り込むような口調は。

神秘のブレスレットを身につければ宝くじも当たる、モテモテになる!

そんな広告の煽りにしか思えねえんです。

あるいは蔦重が悪徳広告代理店の営業マンにも思えてきたぜ。

象徴的なのは、ここで滝沢瑣吉が乗り込んできたこと。

彼は源内生存説は否定してきまして、みの吉に連れてゆかれます。

わかるぜ。滝沢はこういうことには乗っかってこない性格ですんで。曲亭馬琴を守るところだけは肯定したいところですね。

滝沢は秘密を漏らしそうだから仲間に入れないと蔦重は説明しますが、そうでなく全力で場の空気を読まずにぶち壊してくるからそうしているように思えます。彼は現実主義者なんでね。

すると朋誠堂喜三二から雅号は「しゃらくさい」でどうか?という案が出てきます。

なんだか気持ち悪いのは、死んでいるはずの源内の思いを勝手に代弁しているところですかね。

もはや完全にオカルトです。霊言シリーズ「平賀源内」に突っ込んできていて、そりゃあ滝沢はこんなもん乗っからねえわな。

それにしても、江戸時代を代表する文人を、まとめてオカルト陰謀論者集団にされて、あっしゃぁどうすりゃいいんですかい!

「写楽!」

と皆で同時に叫ぶところは本当に辛かった……。

 

平賀源内は蘭画を描いたと断言できるのか?

平賀源内の作とされる『西洋婦人図』は文化遺産オンラインでご確認できます。

絵の解説をご覧いただければわかりますが、なんとも歯切れが悪い中身となっています。引用してみましょう。

本図は、安永2年(1773)に阿仁銅山検分のため秋田に赴き、小田野直武や佐竹曙山に洋風画法を伝え、洋風画の理論的指導者と評される源内唯一の油彩画として知られていますが、他に基準作がない源内の真筆とするには慎重な検討が必要です。

「洋風画の理論的指導者と評される源内」とあります。

あくまで理論的とされ、技法の指導はしていないとみなされているということです。

そして次。

他に基準作がない源内の真筆とするには慎重な検討が必要です。

源内とは断定できない。

基準作がないということは、そもそも源内は絵画を残していないということ。源内風の絵で売り出すというのは、やはりおかしいのです。

わかりやすく言えば「司馬遼太郎風の絵で売り出す」と編集者が言い出すようなものであり、それって「小説では?」と思いますよね。

例えばこれが「横山光輝風の絵で売り出す」とか「手塚治虫風のプロットで売り出す」なら問題はないでしょう。漫画家ですから、そういう混同をわざとやっているようにすら思えます。

そうしたこちらの戸惑いを無視して、蔦重は曽我祭のことも話しつつ、源内風の役者絵は売れると言い出します。

曽我祭で素顔の役者が見られるときに、素のままの役者絵を出せば売れるとも言い出す。

ないでしょ! これも、ありえんわ!

まず、西洋画を取り入れた人物像は歌川国芳が『誠忠義士伝』で大失敗しました。

あれほど武者絵の名人とされた国芳なのに、打ち切りとなっています。

歌川国芳『誠忠義士肖像』/wikipediaより引用

歌川国芳『誠忠義士肖像』/wikipediaより引用

この師匠の仇討ちに、弟子の月岡芳年が『魁題百撰相』で挑みました。

政治情勢により打ち切りにあったと推察されるものの、売れ行きは好調でした。

『魁題百撰相 謎解き浮世絵叢書』

『魁題百撰相 謎解き浮世絵叢書』(→amazon

この国芳『誠忠義士伝』と芳年『魁題百撰相』には、西洋画を意識していると判断できるわかりやすい点があるのです。

それは黒目にハイライトを入れていること。意識して、敢えて変えてきていることがわかります。

浮世絵の人物画では伝統的に黒目は塗りつぶすもので、役者絵の目の強調は形を個性的にするか、化粧由来のアイラインが一般的。

国芳も芳年も、これ以外の作品ではほとんど入れておりません。

源内が描いたとされる『西洋婦人図』はハイライトを入れた目です。

しかし、写楽も歌麿もこれがない。

それで蘭画風だの源内風だのと言われても、説得力がないんですな。

新機軸の人物像や役者絵は、歌川国芳の弟子である落合芳幾や月岡芳年がさんざん苦労しつつ軌道に乗せようとしておりました。

芳年は実質的に最後の浮世絵巨匠とされておりますが、彼の奮闘は後の日本美術界にも引き継がれてゆきます。

そういう浮世絵師の苦闘を軽んじているようにすら思えてしまうのです。

油絵にしても、浮世絵美人画を駆逐するには時間がかかる。

高橋由一の『花魁』は、見たモデルが泣き出したと言いますし、リアルだろうと美人画という認識はされなかったんですな。

高橋由一『花魁』

『花魁』高橋由一/wikipediaより引用

写楽を「素の役者絵」とするのも誤認があります。

確かに「素の役者絵」はあります。オフで浴衣を着てくつろぐような作品が話題をさらったことは確か。

しかしそれはあくまで写楽に打ち勝った歌川豊国らが確立させることであり、写楽の絵はあくまで舞台上のパフォーマンスを描いたものです。

このあたりは豊国の功績を掠めて取っているようで、本当に不愉快極まりないものがある。

それがリアルだのなんだのされるのは、役者も推し活衆も強調してほしくない特徴まで描きこんだ点にあります。そうした描き方にしても、能役者である斎藤十郎兵衛だからできたことと言われますが。

そういう写楽の特性も、浮世絵の歴史も、全部ぶちまけるようなやり取りには怒りしか感じられません。

あっしゃァ、よく言われまさ。

ファンがいる大河を貶すなんて人でなしの、ろくでなし。ファンがいる好きなものを貶すなんて最低最悪だとね。

でも反論させてくだせえ。

この大河は、あっしの推してるモンをここまで軽んじてるんですぜ。それに怒っても無理はねえことじゃねえか。

歴史だの、文化だの、土足でネタにされたら、そりゃ腹も立ちますぜ。

このドラマはあと一月もすりゃ終わりますよ。でもここで、プロジェクト写楽なんて色物を褒め称えたら、その不見識ぶりは消えずに残ります。そんなことあっしゃぁ、ごめん被りまさ。

知識もなしにドラマを楽しむことに文句はありゃしませんよ。

どんな荒唐無稽話でも楽しんだら勝ち。史実なんてしゃらくせえ! ま、そういう見方もありますわな。でもヨ!

知識があるほうが、深掘りできるったこたぁ、ぜってーあるんですよ。劇中だと滝沢瑣吉も勝川春朗もこのタイプだな。

その上で深掘りしている相手に対し「野暮だ」の「しゃらくせえ」だの余計なお世話だからな。

相手と評価が割れた際、そうなるのは相手や作品のせいでなく、自分の知識不足由来かもしれんと思うことは大事ですぜ。

ちなみに、こういう見方をしてみても、あっしとしちゃあ、有名どころ絵師では写楽が一番つまらねえんだな。

作品数が少ねえから深掘りがすぐ終わっちまってな。歌川国芳とその弟子なんざそりゃもう、深い底なし沼ですぜ。

写楽ではしゃげるってなァ、歌川玄治店派を知らねえってのもあるんじゃねえかなって思うわけよ。鑑賞のお供に岩下哲典先生の研究なんてどうでえ!

 

私怨を晴らすためには手段を選ばない定信

松平定信はさすがにこのプロジェクトに困惑しております。

しかし目が曇っているせいか、乗せられてゆく。

定信が「源内は蘭画もやっておったしな」というのは、何かの誤認だと思いましょう。

あれほど猜疑心旺盛な彼が信じてしまうというのも、何か心理的に弱っているのでしょうか。それでしかも「絵は武家の嗜みの一つ」と続けるところも辛いと言いますか。

何が辛いのか?というと、定信は黄表紙を好む場面は出てきたものの、絵を鑑賞する場面がないのです。伏線として張ってないんですな。

どのみち、源内が西洋画に詳しいという史実すら怪しいので、もう気にしていたらキリがないといえばそうなんですが。

ここで嫌味を応酬しながら、話をまとめていく定信と蔦重。

私怨のため、蔦重に小判まで渡す定信を、はっ倒したくなってきます。

定信は長谷川平蔵を使っておりますよね。

平蔵は直参ですぜ。江戸幕府から禄をもらっておりやす。お役目は江戸の治安維持。そういう将軍家に仕えるべき労力を、私怨のために用いるというのは公私混同ではないですか。

こんな忠義に背く松平定信なんて、あっしゃあ見たかねえんです。

さて、ここで考えたいのは、松平定信がわざわざ平賀源内を使う理由です。

治済暗躍の被害者は彼自身である。直接立ち向かうではダメなのか?

と、これは被害者意識を使いたいのでしょう。

定信は念願の将軍になれなかったわけですし、不可解な失脚をしております。しかし、そのことを嘆いているのはせいぜいが彼自身か、彼の周りのごく狭い範囲だけです。

可哀想だ、同情できる、そんな悲運の象徴で同情を掴みたい。そこで平賀源内を利用することにしたのでしょう。

奇しくも蔦重が指摘したように、源内に会ったこともない定信が、思い入れを持つ道理はありません。

つまりは、わかりやすい存在だから乗っかるだけ。

つい先日、トランプ大統領が暗殺された過激インフルエンサーを大仰に追悼していたような発想ですね。

 

源内風と言われてもな

そのころ歌麿は、発注主に対して苛立ちを覚えていました。

本屋の誰もが歌麿の完成品を受け取るだけで、蔦重のようにしつこく、くどく注文を出してこない。

そのくどさは、プロジェクト写楽を請け負う連中が味わっておりまして。

具合的に何がどう駄目なのか曖昧なので、プロットのためのダメ出しにしか思えません。

「どこかどう源内風なんだよ!」

そんな言葉も言うわけですが、そもそも源内の絵が基準として設定できるほど現存しないことを踏まえると、何もかもが虚しくなってきます。それこそ雲を掴むような話ですな。

ただ、作り手もわかっているようなセリフはあるんです。

北尾重政が苛立ちつつ、「源内風の似絵が頭の中にあるのか」と凄みます。

そんなもん、はなからねえんですよ。だって実在しねえもん。描いている側もそこはわかってなけりゃ、こんな台詞出てこないと思いやすぜ。

歌麿も不満だし、結局、元の鞘に収めたいからわざとこうしているんですよね。

史実をたどりますと、写楽売り出しにおける蔦重は酷いといえばそう。

売り出し当初は派手で雲母摺(きらずり)にしていたものが、出せば出すほどコスト削減をしてゆく。コンセプトもだんだん無茶苦茶になる。

版元は厳しい経営に陥りやすいこともあり、シビアな判断を下すもの。

とはいえ、その中でも写楽と蔦重はなかなかよろしくない関係性で、プロデュースに失敗して使い潰したように思えなくもないのですな。

それこそ万次郎こと二代目西村屋与八の方が、よほど見る目があるように見えます。

そうそう、ここで万次郎が全く出てこないのも、大変恣意的に思えます。

今ごろ西村屋は、歌川豊国を売り出す準備中でしょう。

歌川豊国像(歌川国貞作)/wikipediaより引用

しかし、豊国を出すと、写楽が敗北する姿が露わになってしまう。つまりは目立ってしまうので、出さないのでしょう。

歌川派推しにとっては、非常に理不尽な展開です。

阪神巨人戦を描くとされた作品で、ずっと阪神しか出て来なかったら、どう考えても不可解でしょう。

しかも、モデルとなった試合では阪神が大敗していたとすれば、どんだけネタにされても文句は言えないでしょうよ。

阪神ネタで本作の盛り上がりを例えると戦う前から「Vやねん!」だの「Vやで!」だの「負ける気せえへん、蘭画やし」とはしゃいでいるような痛々しさですからね。

つまらないかどうかを通り越して、この展開はあまりに激痛黒歴史、不吉そのものなんやで……。

まぁ、どっちにせよ、大河でいくら何をやらかそうと、関東じゃァ、歌川派はどこかしらで常時見られますんでね。いちいち怒っちゃいらねえぜ!

 

家斉の子沢山が幕府を傾けてゆく

江戸城では一橋治済が、11代将軍・徳川家斉の子を抱いております。

六年の在位中、生まれた子は四人。そのうち二人は育っていないと、ブリーダーじみた発言をしております。

治済は「将軍の務めは子作りだ」と言い出します。松平定信がいなくなった今、我が子は種馬にし放題。もはや彼の暴走は、幕閣の誰にも止められません。

本作は、幕政パート不要論がしつこく取り沙汰されるものですが、そうかといって江戸文化を扱うパートもここにきておかしくなったので、なんだかよくわからなくなってきました。

ともあれ幕政パートは再来年の予習としては役立ちます。

江戸中期以降のロシアとの関係性も把握できたでしょうから、中年以上対象の「歴史総合」としては上出来ではないでしょうか。

治済のこの場面も『逆賊の幕臣』主人公たちが見たら、頭を抱えそうな不吉な要素が詰まっております。

「清水も空きが出る」と治済はハッキリと口にしました。御三家や御三卿にまで、己の血を引く子を送り込みたいのでしょう。

これが幕末の政局に絶大な影響を及ぼします。

長くなるけれども、予習のために張り切っていってみますぜ。

御三家のうちでも、特殊な扱いであるのが水戸藩です。

唯一関東にあり、その当主は江戸定府(自領ではなく江戸に住むこと)扱いとされます。

水戸黄門が「天下の副将軍」と名乗る由来でもありますね。副将軍は公式にはない役職とはいえ、実質的にそうであるという拡大解釈です。

水戸藩は、この黄門様こと光圀以来、イデオロギーが強固な藩でした。

エリート意識が強いにも関わらず、むしろ挫折が多い。7代将軍・徳川家継が倒れた際、水戸藩3代当主・綱條が将軍候補とされるものの、紀州藩から徳川吉宗が選ばれたという経緯もある。

この水戸藩にしても、治済からすれば孫を送りたいと考えてもおかしくはない。そしてこのことが小栗忠順のような幕末幕臣からすれば恐ろしい事態を引き起こします。

己の血を御三家、御三卿に送り込みたい――こんな治済・家斉の迷惑な発想に水戸藩が巻き込まれ、さらには危険な要素が醸成されてゆきます。

水戸藩7代藩主・徳川治紀には、成人した男子が4人おりました。

長男・徳川斉脩:8代藩主

二男・徳川頼恕:高松藩松平家養子となる

三男・徳川斉昭:部屋住み

四男・徳川頼筠:宍戸藩松平家養子となる

三男の徳川斉昭は長男が夭折した際のスペア候補。

文政12年(1829年)に斉脩(なりのぶ)が継嗣なきまま病に倒れると、家斉の二十一男・徳川斉彊(なりかつ)を水戸藩主に据えようという動きが起こります。

なんてことだ、我々には斉昭様がおるではないか!

そう猛反発した水戸藩士たちがいました。水戸は江戸からそう遠くない。そこで江戸に赴き、運動を熱心に行います。と、首尾よく訴えが通じ、次の水戸藩主は徳川斉昭となるのでした。

後の天狗党の誕生です。元々彼らは、斉昭推し一派から生まれた派閥でした。

この活動から生まれた斉昭は、いろいろな爆弾を抱え込んでゆきます。

まず、京都の姫君を御簾中に迎えることとなる。皇族・有栖川宮家から、登美宮吉子女王がはるばる東国へ降ってきました。

斉昭ならではの対抗心もあるのでしょう。吉子女王の異母姉は、12代将軍・徳川家慶御台所の楽宮喬子女王です。

この斉昭と吉子女王の間に生まれたのが、後の15代将軍・徳川慶喜となります。

江戸に近い位置にいるからこそ、幕政に突っ込んでくる徳川斉昭

京都の長州藩と連携し、暴れ、幕政を揺るがす天狗党。

そして、家康がもっとも恐れていたであろう、皇族の血を引く将軍となる慶喜――幕政にとどめを刺すことになる、幕末最大の火薬庫・水戸藩は、たどってゆけば治済の野望にたどり着けるということです。

さぁ、再来年も一橋に怒ろうぜ!

 

尊王攘夷が発展してゆく時代

『べらぼう』の惜しまれる点として、尊王攘夷の芽生えが描かれていないこともあります。

ロシアの脅威に刺激された中、当時の知識人は「でも日本はスゴイからなんとかなる!」という、大江戸版日本スゴイのディストピア思想を醸成してゆきました。

書物問屋株を買った蔦重は、実はこの国学関連書籍も手掛けています。

この国学が水戸でさらに発展し、「前期水戸学」が「後期水戸学」へつながってゆくのもこのドラマの時系列です。

水戸藩の出番の少なさを嘆いても仕方ないので、この辺りは皆さまで自習していただければ。

オススメ書籍としては、山川菊栄『幕末の水戸藩』、小島毅先生『近代日本の陽明学』、片山杜秀先生『尊皇攘夷: 水戸学の四百年』あたりが良いですかね。

『青天を衝け』は、いったん忘れてください。

『逆賊の幕臣』では、小栗忠順の才知を見抜く井伊直弼にも注目したいところです。

井伊直弼は我慢が限界に達し、「安政の大獄」で強引な処断に踏み切りましたが、なぜ彼がそこまで強硬策に出なければならなかったのか?

その辺は水戸藩について学ぶとよくわかるようになります。

てなわけでまァ、定信の仇討ちごっこにどうにも乗れないのは、この辺に理由がありまさぁね。

何をどうしようが、定信の私怨がスッキリするだけで、後進の幕臣にとっちゃ何の意味もねえんだよな。そんなことに優秀な頭脳を使う暇があるなら、他にすることがあったでしょう。

治済は出家した尼姿の大崎に面会しています。

どうやら葵小僧以来、出家していたものの、身の危険を感じて一橋に戻りたいそうです。

ここで大崎が、定信のリベンジャーズチームの全容を掴んでいるのもおかしいっちゃそうです。このドラマはどうにも情報の流れがおかしくなりましたね。

こういうときは、再来年大河考証である岩下哲典先生を思い出してなんとか堪えるしかねえ。

彼の研究こそ、江戸の情報ネットワークど真ん中ですから。嗚呼、ないものねだりっちゃそうだけど、今年も岩下先生が参加していたらこうはならなかったかもしれませんぜ。

 

壁になりたい女子がカップリングを修復する

蔦重は、源内風はいったん横に置いて(んなモンねえからにゃ、はなから横に置くも何もないんですが……)、似絵から始めると言い出しました。

そこからかい! と、西村屋与八と万次郎が聞いたらツッコミを入れそうな話です。二人は今ごろ歌川豊国に色々と注文を出しているでしょう。

ていと蔦重は、今さらながらに歌麿の絵を再評価しています。そしてアリバイのように、蔦重の評価が足りないと吉原で暴れる歌麿の姿が出てくる。

いや、歌麿は、蔦重以外の版元でも傑作を手掛けていますので、これは歌麿本人にも失礼な話ではないでしょうか。

歌麿が自宅で絵を描いていると、ていがやってきました。

そしてブロマンス大河の極みを見せてきます。

下絵だけを預かった『歌撰恋之部』を仕上げたのは、蔦重からの恋文だと言い出しました。

それでいいんですかい?

恋文の往来をしたから通じ合ってハッピーエンドってことで?

ていは、渾身の説得をしますが、染谷将太さんと橋本愛さんが熱演すればするほど虚しいもんがあります。

もしも歌麿写楽説を採用するのであれば、劇中で彼が芝居を見ているといった伏線がなければおかしいでしょう。

役者絵は売れ筋なので、どの絵師も手掛けております。

しかし、劇中の歌麿はほぼ美人画にしか焦点を当てて来ておりません。伏線がちゃんと張られていない。

しかも多くの絵師が写楽について何も語り残していない中、例外と言えるのが歌麿でした。

歌麿は写楽に対してかなりの酷評を残しているのです。

歌麿は描くものの魅力を引き延ばす。写楽は欠点を強調する。俺と一緒にするんじゃねえ!

というように、かなりきつい言い方で批判しており、自分と混同するなと怒っております。これは蔦重への怒りにも思えるところですね。

それをよりにもよって、歌麿を写楽の正体にするって、ほとんど侮辱ではないでしょうか。

ていもおかしい。これじゃ「推しカプを見るために壁になりたいオタクの私」ではないですか。

出家まですると言い出していて、何事かと思いました。江戸時代の儒教規範と、現代の推し活に勤しむ女子の悪魔じみたハイブリッド感があって目眩がしてきやしたぜ。

夫を諌めるおていさんがあっしは好きでした。こんなのもう別人じゃないかと思ってしまいます。

ブロマンス大河であることは理解していたつもりですが、だからといって壁になりたい女子まで出さなくてもよいでしょうに。

『麒麟がくる』の帰蝶、駒、伊呂波太夫はその点わきまえていたものです。

どうしてこんなことをするんでしょう?

それだけは辞めて欲しかった。

 

MVP:松平定信

ここまできて、彼の評価を決定的に下げるとは思いませんでした。

滅多にフィクションで映像化されない人物でこういうことをされますと、大変困った話ではある。

2023年の大河ドラマ『どうする家康』は、家康以下、人物像が最低最悪の描かれ方でした。それでも数年後には『豊臣兄弟!』もあり、挽回のチャンスはある。

しかし定信はなぁ……。次がいつになるか、全く予測はつきません。それなのに、再来年の小栗忠順以下、幕臣チームが見たら悪い意味で「べらぼうめ!」と吐き捨てそうな描かれ方をしました。

結果的に、定信の策は幕府権威低下につながっているんですよ。

平賀源内は、幕府の法で逮捕し、裁くはずだったにもかかわらず、獄死しました。それが生きているとなりゃ、幕府の司法に穴が空いているということになっちまう。

しかも、一橋治済が悪いという噂が市井に流れたら、その子である家斉の正統性にも疑義が生まれますわな。

結果的に将軍権威が低下しかねないんでさ。

定信はそういう因果関係をふまえず、私怨で市井まで巻き込んでいるように思えます。しかも、蔦重なんて信頼できそうにないし、機密情報を守れる性格に思えませんからね。

史実でも家斉は将軍としては最長、半世紀にもわたる治世において、日光社参もしておりません。

子沢山ゆえ、男子に官位を授けようとして、朝廷に頭を下げて、結果的に価値を上げてしまった。幕末へと向かってゆく思想潮流に一役買ってしまったことは否定できません。

そうした史実を定信にまで絡めるというのはいかがなものか。

敬愛する神君家康公なり、祖父の吉宗がこんな振る舞いを見たら、どれだけ呆れ果てることか。やっちまったなぁ、としか言いようがねえんでさ。

 

総評

人生で大事なことは全て大河ドラマから学んだ――とは決して申しません。

といっても、学んでいないわけでもありません。

まず今回はこれを引用させていただきます。

「朝令暮改の何が悪い! より良い案が浮かんだのに、 己の体面のために前の案に固執するとは愚か者のすることじゃ!」

『真田丸』真田昌幸より

「朝令暮改」を「君子豹変」に変えてもよいですかね。

この間まで褒めていたのに、裏切られた気持ちになるかもしれませんが、私なりの真田昌幸マインドの発露と思ってください。

昌幸は根性が悪いからコロコロ裏切るわけではない。

真田の領土を守ためには致し方なくそうしたまでのこと。ノリがあまりに飄々としているし、策が痛烈なので誤解されがちですが。

今回、私としては、裏切られた気分で一杯なのです。

ここまでよくも見事に浮世絵を再現するものだと感動してきたのに、最後の最後でやられた! そんな気持ちでいっぱいでして。

写楽は斎藤十郎兵衛説以外ないと私は思っていました。森下佳子先生もそう口にされていたものです。

今どき斎藤十郎兵衛以外を採用するのは、ともかくセンスが悪いうえに古臭い。

関ヶ原の戦いを語る上で、司馬遼太郎由来の「メッケルは西軍が勝つと予測した」と持ち出してくるとか。

あるいは『麒麟がくる』では否定した本能寺黒幕説とか。

持ち出されたら「今どきそれを言うの?」と困惑してしまう。言っている側は古びていることを自覚できずにいたら、ますます辛い。そんな話なんですよ。

もう一点、大河ならではの懸念があります。大河はゆかりの土地が観光を盛り上げることが通例です。

今年も斎藤十郎兵衛ゆかりの徳島ではPR事業をしております。それがこういう空振りをすると、遺恨を残すからやめた方がいい。

勝手な都合でゆかりの地を裏切るのは本当に悪手なんです。おもしろさ以前、信頼性の話であり、大河のブランドを毀損しかねません。

『天地人』では最上義光を出さなかったため、放映後の山形市でのトークショーではかなり痛烈な応酬を受けたとか。

ネットでのエコーチェンバーに籠っていると気づきにくくなりますが、ゆかりの地から嫌われるのは本当にまずい。

強がってSNSで「批判する奴、しゃらくせえ」だのなんだの書き込めば、それを引用したコタツ記事は出来上がりますね。しかしそんなものにどれだけ価値があるのやら。

それに対して、地元の支持は大事ですからね! こんなこと私が言うまでもなく、手練揃いの本作チームは理解していると思っていたのですが。

ただ、それでも通じてしまうのは、浮世絵愛好者がそれだけ少ないということですかね。

浮世絵知識についていえば、海外先行がまだ残っている状況ですし、幕末明治の絵師はまだ評価が低いままです。

それに引っかかるのは、写楽をやたらと持ち上げるというのは、明治以来の脱亜入欧の残滓と、広告代理店臭を感じさせるところなんでさ。

写楽をテーマにした小説や、映画の脚本を手がけた方は「斎藤十郎兵衛説以外ありえないけど、やむなく」と苦笑しつつ語ることがよくありました。

これしか成立しないけれども、写楽でともかく奇想天外なことを書けばそれなりに注目を集める。だから内心困惑しつつも書いていたわけです。

それを今どきやられたところでどうしたものでしょうか。

写楽高評価の源流を辿るため、先週あげた野口米次郎の本など、読み返しているところです。

どうしたって感じるのは、明治以来の脱亜入欧思想です。黒船来航、そしてアジア太平洋戦争敗北と、近代以降、自信喪失ばかりをさせられてきた日本人。

そんな傷ついた心を癒すためには、西洋人から「スゴーイですね!」と褒められたい心理が湧いて来てしまう。

写楽は西洋で評価された。そう舞い上がってしまったんですな。

この野口の論は今読むと一周回って腹立たしくなることも多い。

彼は歌川豊国、歌川国芳を「芸術家とは言えない」と評してもいます。日本人に受けようと、西洋人目線で「芸術家」認定されないと無意味としていたわけです。

これが書かれた大正という時代の限界もあるのでしょうが、豊国や国芳だけでなく、当時の日本人の価値観まで貶めていて何事かと思う次第です。

野口一人でなく、フェノロサの価値観もこのあたりには影を落としておりますが、ともかく払拭したい偏見ありきの評価だと言わざるを得ません。

そんな古臭い劣等感ありきの価値観なんて、私は御免被る。

それなのに、2025年にもなって大河ドラマで見せつけられるとはどうしたものでしょうか。これを裏切りと呼ばずしてどうしようというのやら。

それと、ドラマとしての作りがおかしい。

伏線が欠けた描写があるとここまで指摘しました。うまくつながらず、なんとかおさめようとして相当雑になっているように感じてしまう。

ここまでおかしいと、本来は、斎藤十郎兵衛説でいくつもりだったのではないか?と推察してしまいます。

過去の大河ドラマでも、当初の案が途中で変わったことはあります。

例えば『八重の桜』は、当初発表されていたプロットに忠実であるのは会津戦争終結までで、明治以降は誰かが改変したような展開をしていました。

『いだてん』は、序盤にあったキレがないし、語彙力も低下したように思えます。中盤以降は惰性でいやいや書いているような不自然さがあったものです。

登場してもおかしくない事柄や人物が、描かれないこともあります。

『真田丸』で関ヶ原本戦が一瞬しか描かれなったことはあてはまりません。あれは上田合戦重視という取捨選択のうえの結果であり、そこまで問題にはなりません。

『いだてん』で西竹一はじめ、戦没オリンピアンを無視したことは、局内でも問題視されていたと私は推察します。放映中の別の番組で、潜没オリンピアン特集が組まれていたのです。

ドラマの出来はさておき、最低限良識的な判断をする人がちゃんと局内にいたことに安堵したものです。

『青天を衝け』の池田屋事件で、遅れて到着した土方歳三だけが出て来たこと。渋沢成一郎が出ていながら彰義隊すら言及されない。これはただの手抜きでしょう。

不可解だったのが『天地人』の慶長出羽合戦です。

主役である直江兼続は出てくるのに、対戦相手である最上義光すら出てこない。有名な味方である前田慶次もいない。この二人の場合、それぞれ持ち主が判明できる兜と朱槍は出て来ましたので、途中で何らかの都合があって出せなくなったことがわかります。

『べらぼう』の場合、この『天地人』に近いといえる不可解な消失があります。

写楽を出しておいて豊国を出さないというのは、慶長出羽合戦で兼続を出して義光を出さないくらい不自然な話なのです。

二代目西村屋与八も、すっかり目立たなくなりました。

二代目西与は鱗形屋孫兵衛の二男です。彼にせよ、初代西村屋与八にせよ、序盤で蔦重と何かと因縁があった人物です。両者ともに後半も登場しています。

二代目西与はセンスもこだわりもある人物として描かれて来ており、彼が「歌麿の名前だけ欲しがった」版元になるわけがないといえる。

当初は彼が歌川豊国を擁して蔦重と対峙する案で途中までは来たのではないかと思えます。

それがここにきて、パラレルワールドに迷い込んじまった。

話している相手が、「ゴム人間」、「ディープステート」、「キャンセルカルチャー」、「ナチスはよいこともした」などと言い出したら、その時点で私は話すことを諦めますね。

自分とは交わらない平行線上を生きる相手とは、話しても疲れるだけだし、揉めることは目に見えておりますので。

いわば『べらぼう』の写楽は、もはやパラレルワールドです。

平行線の世界上、私のいる側には滝沢瑣吉、二代目西村屋与八、歌川豊国がいるって寸法でさあ。

で、向こう側では写楽が売れて、蘇我祭も盛り上がって、一橋治済も始末されて、これでめでたしめでたし!

よよよいよよよいよよよいよい、めでてぇな!

いや待てよ。そりゃ民放時代劇の世界観じゃねえか?

 

大河ドラマの限界点

どうしてこうなったのか?

頭にふと思い浮かんだのは『ゴールデンカムイ』です。

作品のネタバレもあるので、嫌な方は飛ばしてください。

あの作品は途中まで主人公の杉元と、敵役の鶴見を、生死不明退場か、死なせるようにしてきたのではないかと私は予測していました。

それが両者ともに生存します。

鶴見は単行本で展開を変えてまでそうされてしまいました。想定通り退場させた尾形の方がストーリーとして遥かに綺麗にまとまっていると思えたものです。

どうしてそうなったのか?

これは現代社会の病理ともいえるのですが、バッドエンドを回避し、無理にでもハッピーエンドにしたい欲求があるのでしょう。

人間は複雑な世の中を生き抜くうえで、ありのままに物事を見ていくことに耐えきれなくなることがあります。

そこで古代の人々は、穴が二つ開いていて、その下に線のような傷や、大きな穴があるような木を見つけると神だと想像して、宗教を見出し、生き抜く力として来ました。

人が生き抜くにはこうした物語が支えとなるのです。

とはいえ、宗教は近現代において否定され、弱められてゆきます。それを埋めるように人はフィクションにのめり込むようになってゆくのです。

かつては宗教、現代はフィクション。

生きるための力がバッドエンドで終わってしまったり、否定されることは実に辛いこととなりました。そのことはドラマの感想を書いていると痛感させられます。

過去、私が大河を批判すると、そのファンはこんな怒りを書き記すことが往々にしてありました。

私の心を傷つけた、と。

いや、ドラマの感想でそんな大袈裟ではないか――そう思ったものですが、現代人にとってのフィクションとは、かつての宗教のようなものだと思えば腑に落ちるところではあります。

誰しも信仰は否定されたくないし、妥協点を探れるものでもないのでしょう。

近年、ファンダムが過激化する「トキシック(有毒)ファンダム」現象が問題視されます。ファンダムの水源に毒が流し込まれると、ついていけない人は黙って消えてゆく。

独の沼地に敢えて浸かり続けるものは、論理や批評を無視して、忠誠心を証明することばかりを重視するようになる。作品がトンデモ暴走展開すればするほど、忠誠心が問われます。ますます危険になってゆくわけですな。

『べらぼう』は、いわば神を作り上げた側が、その神を引き摺り下ろすことに耐えきれなくなったのか。下ろしたことで信徒が石をぶつけてくることが怖くなったのか。

当初の予定や歴史を捻じ曲げてでも、ハッピーエンドを作り上げようとするようになった。

そんな悲しい現象なのかもしれません。

この展開により、このドラマは私の中で話題にのぼらせてはいけない作品になりました。

いちいち写楽や歌川派の説明をしたくありませんし、したらしたで、ほぼ確実に場の空気が重くなり、下手すりゃ恨まれ、絶縁宣言を送られる羽目になる。

このドラマが話題の俎上にのぼったら、三十六計逃げるに如かずってことになりまさぁね。

どうせ相手は「こっちの浮世絵への思い入れなんて理解しない」でしょう。

『べらぼう』は、もはや忠誠心アピールの場と化しつつある。批判に対して返す言葉がいちいち過激になってきてやがる。そういうところにあっしが身を置きたくないのは、もはや仕方中橋なんですよ。

忠臣蔵』ごっこはやりたい人だけにしてくんな。

私自身の戸惑いは横におきまして、大河ドラマ全体の話をしますと。

大河ドラマは、ひとつの限界点に到達したのかもしれません。

史実に忠実にし、バッドエンドにするところは見たくない。捻じ曲げてでもハッピーエンドにしたい。

時代劇でそれは可能なのか?

不可能ではありません。

韓流や華流で取り入れられている「フュージョン時代劇」がこれにあたります。

モデルとなった時代や出来事、人物は想像できる。しかしバッドエンドを変えて、より見やすい展開にするものです。

あるいは「SF時代劇」。SFと時代劇を組み合わせた新機軸です。

『べらぼう』とスタッフが重なるNHKドラマ10『大奥』のような作品が該当すると言えます。

『べらぼう』がよいドラマであることは確かですので、この路線でいくのであれば、大河以外の枠ではいかがでしょう。あるいは大河をもう少し柔軟度が高い枠にしても良いかもしれません。

いずれにせよ、今年の大河ドラマは逸脱が過ぎてしまったと私は思えるのです。それにより限界点が示されたという点では評価すべきかもしれませんが。

念の為に申しておきますが、再来年はそういうことをやめてほしい。

小栗忠順が実は生きていて、栗本鋤雲の前に現れるような展開にはしないでください。

最後に私のわがままといえばそうですが、願掛けとして書いておきます。

このスタッフで歌川国芳とその弟子でもドラマにしていただけませんでしょうか。今回歪められた浮世絵の歴史を糺す、罪滅ぼしとしていかがでしょうか。猫もたくさん出せますよ。

以前、この手のぼやきとして『柳生一族の陰謀』リメイク希望を書いたところ、実現しました。

小栗忠順大河も、岩下哲典先生考証の大河も、熱烈に見たいものの実現は無理だろうと思っていました。それが当たりましたので、厚かましくここに記す次第でやんす。

📘 『べらぼう』総合ガイド|登場人物・史実・浮世絵を網羅

🎬 大河ドラマ特集|最新作や人気作品(『真田丸』以降)を総まとめ


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【参考】
べらぼう公式サイト

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武者震之助

2015年の大河ドラマ『花燃ゆ』以来、毎年レビューを担当。大河ドラマにとっての魏徴(ぎちょう)たらんと自認しているが、そう思うのは本人だけである。

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