小牧・長久手の戦い

『小牧長久手合戦図屏風』/wikipediaより引用

合戦・軍事

秀吉vs家康の総力戦となった「小牧・長久手の戦い」複雑な戦況をスッキリ解説

2024/11/20

豊臣秀吉と徳川家康が覇権を競った合戦として知られる【小牧・長久手の戦い】。

天正12年(1584年)11月21日に終結しているのですが、実は【本能寺の変】から2年5ヶ月しか経っておりません。

あまりに慌ただしい展開のため、戦国ファンの方でも、本能寺だけでなく【山崎の戦い】やら【清洲会議】やら【賤ヶ岳の戦い】やら、アタマの中で結構ゴチャついておりませんか?

そこで今回は、本能寺からの流れを年表チャートでまとめ、さらに地図で確認しながら【小牧・長久手の戦い】を見ていきたいと思います。

豊臣秀吉/wikipediaより引用

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小牧・長久手の戦い前の情勢とは?

小牧・長久手の戦いは「◯◯の勝利!」と言い切れるような、スパッとした決着ではありませんでした。

天正12年(1584年)3月に始まったこの戦いは、戦場となったエリアがかなり広く、秀吉or家康に属する両軍が多くの陣や砦を構築。

長久手でのみ大きな戦闘があり、その他は小牧を中心に小競り合いしながら互いを見合う状態が11月まで続きました。

・小牧の戦い=両軍にらみ合い

・長久手の戦い=激しい戦いがあった

一言で言えばこんな感じです。

ここに至るまでを振り返ってみますと、まず本能寺の変が起きたのは、旧暦で天正10年(1582年)6月2日のことでした。

ご存知の通り明智光秀が本能寺に襲いかかり、信長と、跡取り息子の織田信忠らが亡くなっております。

織田信長/wikipediaより引用

首尾よく織田のツートップを倒した光秀は、すかさず畿内と周辺の要衝を押さえにかかったのですが、そこへ現れたのが、備中高松城の水攻めで毛利家と対峙していた豊臣秀吉です。

秀吉は、黒田官兵衛や蜂須賀正勝を通じて安国寺恵瓊(その背景に吉川元春や小早川隆景らの毛利方)との和睦交渉を締結させ、光秀のいる京方面へ進軍。

【山崎の戦い】で破ります。

しかし、これで織田家のトップに立てるほど甘くはありませんでした。

戦後に、

豊臣秀吉

柴田勝家

丹羽長秀

池田恒興

※滝川一益は参加できず

という四名による【清州会議】が行われ、誰が織田家の新当主・三法師を庇護し、誰がどの地域を支配するか、話し合いがもたれました。

結果、織田家の精神的シンボルだった信長妹・お市の方は柴田勝家に再嫁し、さらには近江の要衝エリアが柴田方に押さえられるなどして、秀吉ばかりが有利に終わったわけではありません。

そして勝家と秀吉は天正11年(1583年)に【賤ヶ岳の戦い】で激突――。

猛将として知られた柴田勝家/Wikipediaより引用

前田利家の戦線離脱などもあって有利にコトを運べた秀吉が勝利を収め、織田家内での立場を決定的にしたのでした。

しかし……。

 


本能寺からの年表チャート

破竹の勢いの秀吉も、相手が徳川家康となれば、コトはそう単純でもありません。

徳川は、秀吉が内部抗争で競っている間に、旧武田の領地である信濃半国・甲斐一国を掌握(天正壬午の乱)。

武田家臣団も取り込むなどしてメキメキと力をつけ、近隣エリアで秀吉に対抗できるほぼ唯一の存在になっていたのです。

徳川家康/wikipediaより引用

ここまでの流れ、いったん年表チャートで整理しておきましょう。

【年表チャート】

◆天正10年(1582年)
①本能寺の変

②秀吉の中国大返し

④山崎の戦い(秀吉vs光秀)

③清州会議

◆天正11年(1583年)
④賤ヶ岳の戦い(秀吉vs勝家)

◆天正12年(1584年)
⑤小牧・長久手の戦い←今日ここ

織田家の権力抗争を勝ち抜いてきた秀吉と、旧武田領と人材を取り込み北条・上杉と渡り合った徳川。

兵力では秀吉有利なれど、戦はやってみるまでわからない――戦国ファンにはたまらない展開ですね。

しかし、当事者たちは別の意味でたまらなかったでしょう。

本能寺以来、毎年、大きな合戦が続いていたところに、今回の小牧・長久手の戦いです。

キッカケは、それまで秀吉と微妙な関係を保っていた織田信雄でした。

 

地味な信雄・家康軍に対し華やかな秀吉軍

織田信雄とは、信長の二男です。

映画『清須会議』では妻夫木聡さんがフニャけた演技をしていたように「愚将」として知られる人物ですね。

織田信雄/wikipediaより引用

実際は「そうアホでもなかっただろう」という指摘もありますが、この戦いの結末を見てみれば、確かに凡将以下として描かれても仕方のない有り様です。

小牧・長久手の戦いは、この信雄が秀吉に怒りを覚え、そして秀吉を怒らせ、自身が徳川家康に話を持ちかけるところから戦は始まります。

一応、この時点での主役は織田家であり、家康はあくまで協力者というポジション。

要は、織田信雄&徳川家康の連合軍でした。

一方の秀吉軍は?

それはもう華々しい顔ぶれが並んでおりました。

いささか細かくなりますが、陣立てで主要人物を確認してみましょう。

【秀吉軍ラインナップ】

【東】
一番隊:加藤光泰・神子田正治・日根野弘就ら

二番隊:細川忠興・高山右近ら

三番隊:中川秀政・小川祐忠ら

四番隊:金森長近・蜂屋頼隆ら

五番隊:丹羽長重(丹羽長秀の嫡男)

【西】
一番隊:黒田官兵衛・蜂須賀正勝・蒲生氏郷ら

二番隊:堀秀政・稲葉貞通ら

三番隊:筒井定次

四番隊:羽柴秀長

【後】
一番隊:山内一豊・加藤清正・松下之綱ら

二番隊:秀吉本陣

三番隊:浅野長政・福島正信(正則の父)

※松下之綱とは、秀吉が織田家の前に仕えていた武将(あるいは秀吉が仕えていた松下長則の息子)

総兵力は実に7万(10万とも)――対する織田信雄&徳川家康連合軍が2~3万と目されており、数で言えば圧倒的に秀吉が優勢でした。

しかし、数字だけで結果が決まらないのが合戦の常。

特に徳川軍は、四天王(本多忠勝・酒井忠次・榊原康政・井伊直政)らを中心とした勇将をズラリと取り揃えており、【天正壬午の乱】を経てさらに精強な部隊となっていたはずです。

用意周到な家康は、秀吉牽制のため、全国各地の諸勢力に協力を要請しておりました。

 

外交戦略もアツい!全国で家康vs秀吉の構図

家康が協力を要請した諸勢力とは以下の通りです。

【家康の外交戦略】

・根来寺と雑賀衆(紀伊での蜂起)

・長宗我部元親(淡路や大坂への侵攻)

・顕如(本願寺/一向宗による一揆)

・各地の国衆(河内・大和・伊賀・近江・丹波)

・佐々成政(北陸越中での蜂起)

これらが全て立ち上がり、背後を衝かれでもしたら、さすがの秀吉も苦しいところ。

本願寺の顕如上人/wikipedia

もちろん黙って見過ごす秀吉ではありません。

同じく外交戦略を駆使します。

【秀吉の外交戦略】

・丹羽長秀→北陸の押さえ

・前田利家→北陸の押さえ

・本願寺顕如→一揆の回避

・上杉景勝→越中や信濃への牽制

・佐竹義重→関東の押さえ

なんとなく【徳川方の国衆vs豊臣方の大名】という感じで、秀吉の方が軍の規模が大きい印象ですね。

本願寺の顕如上人を取り合っているところが、当時の趨勢を感じさせます。

外交戦では、まずまずの互角といったところでしょうか。

となれば後は直接対決しかありません。

戦いは、尾張平野を一望できる小牧山城に徳川が陣を張り、

小牧山城

秀吉が犬山(犬山城や楽田城)に本陣を構えたところから始まりました。

 


土木戦術に優れた両軍は共に動けず

この合戦は、山崎の戦いや関ヶ原の戦いのように、両軍激しくぶつかるド派手な戦闘には発展しておりません(長久手の戦いを除く)。

豊臣も徳川も、周辺エリアに拠点(砦など)を設置しまくったため、両者、動くに動けなくなってしまったのですね。

まるで【賤ヶ岳の戦い】のような展開です。

柴田勝家(左)と豊臣秀吉の肖像画
賤ヶ岳の戦い|秀吉と勝家が正面から激突!勝敗を左右したのは利家の裏切り?

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拠点設置(土木工事)を重要視して、敵と対峙するのは【長篠の戦い】にも見られた戦術であり、その後の秀吉による三木城や鳥取城、あるいは備中高松城での戦いでもそうでした。

そうした事情を家康が知らないわけもなく、ゆえに両者慎重にならざるを得なかったのでしょう。

ちょっと細かくなりますが、両軍の拠点を列挙してみます。

【豊臣方の拠点】
犬山城
楽田城
羽黒砦
内久保砦
外久保砦
小口城
青塚砦
岩崎山砦
小松寺山砦
田中砦
二重堀砦跡
大留城

【徳川方の拠点】
小牧山城
蟹清水砦
北外山砦
宇田津砦
田楽砦

【その他】
長久手古戦場跡

視覚的にわかりやすくするため、以下の地図に拠点をマークしておきました。

よろしければザッとご覧ください。

戦場の規模がご理解できるはずです。

※黄色が豊臣の拠点で、赤色が徳川拠点、紫色が長久手の戦い古戦場となります

現在の名古屋市を取り囲むようにして、多くの拠点が広がっているのがご理解いただけるでしょう。

北側エリアが秀吉で、南側が家康ですね。

右下の赤いマークが岡崎城であり、ここが戦況を大きく動かすキッカケとなります。

キッカケとは他でもありません。

両軍が膠着している間、三河の岡崎城を攻めるべく豊臣方が別働隊を発射させたのです。

いわゆる【中入り】と呼ばれる作戦で、これが長久手の戦いへ繋がっていきます。

 

中入り戦術――徳川の本国へ攻め込む

この中入りという作戦。

徳川の本国へ攻め込めば、岡崎城を落とせずとも、膠着した戦況に変化を生むことができる――そんな豊臣方の狙いがあったとされます。

そしてまた、攻め込んだ部隊も見事なメンバーでした。

【中入り部隊】
総大将:羽柴秀次

一番隊:池田恒興・元助・輝政父子

二番隊:森長可ら

三番隊:堀秀政ら

四番隊:羽柴秀次・田中吉政

羽柴秀次とは、後に自害へ追い込まれる(あるいは自発的に自害したともされる)あの豊臣秀次です。

豊臣秀次/wikipediaより引用

当時は豊臣秀頼が生まれておらず、秀吉の信任も厚かった、あるいは後継者として手柄を立てさせたかったのでしょう。

総大将を任されています。

他に、池田恒興という織田家歴戦のツワモノや、鬼武蔵と呼ばれた森長可(ながよし)、信長の側近として長らく活躍した堀秀政など、錚々たるメンツが揃っており、豊臣方にしても「あわよくば……」という思いもあったかもしれません。

しかし、ここは徳川のほうが一枚上手でした。

中入り軍の虚を突いて襲いかかり、池田恒興と森長可を討ち取るという、凄まじい戦果を挙げたのです。

これが【長久手の戦い】です。

【小牧・長久手の戦い】の名前にもなっているように、徳川から見れば華々しい戦歴であり、このとき武田の赤備えを引き継いだ井伊直政の凄まじい働きぶりが伝わっております。

井伊直政/wikipediaより引用

以下の記事に直政の詳細が掲載されておりますが、

井伊直政
井伊直政の生涯|武田の赤備えを継いだ井伊家の跡取り 四天王までの過酷な道のり

続きを見る

先鋒としてがむしゃらに突撃し、敵の陣形を崩すという「突き掛かり戦法」を駆使したとされます。

駆使というか、命がけの突撃ですよね。

さすが井伊の赤鬼。

この戦いの後、直政は4万石→6万石へと大幅加増されました。

 


勝手に和睦しよった!戦況を動かしたのは伊勢だった

徳川軍の快勝となった長久手の戦いが終わると、再び、静かな合戦へと戻りました。

長久手古戦場碑/Wikipediaより引用

長久手古戦場碑/Wikipediaより引用

細かな戦闘はあっても、趨勢を左右するような流れにはならず。

小牧周辺では厭戦気分すら漂う中、戦況を動かしたのが【伊勢】です。

メインの戦場となった尾張の隣・伊勢でも戦闘が行われていて、羽柴秀長や蒲生氏郷らが同地方へ攻め込んでいたのです。

伊勢方面は、小牧・長久手の戦い主役の一人・織田信雄の本国でした。

秀吉は、その拠点をいくつか陥落させると、いよいよ長島城の織田信雄へ迫り、兵糧攻めを敢行……するのではなく、講和をもちかけます。

負けているならまだしも、なぜ、秀吉から和睦を求めたのか?

前述の通り、この戦いはそもそも織田信雄が秀吉と対立し、徳川家康に協力を求めたことから始まっています。

つまり、信雄が戦線放棄してしまうと、家康には戦う理由がなくなってしまう。

戦乱期とはいえ大義名分は重要です。

秀吉が目をつけたのは、まさにそこでした。

結局、家康は、兵を退かなくてはならない状況に追い込まれてしまいます。

 

戦後処理 秀吉の思惑どおりにコトは進んだ?

秀吉と家康の対立――。

この和睦によって両者完全には手打ちとはならずも、概ね、秀吉の思惑に沿って終結しております。

よほど満足のいく結果だったのか。

信雄に対しては人質提出だけでOKという寛大な処置。

賤ヶ岳の戦いでは、自分に反した織田信孝(信長の三男)を自害まで追い込んだのに、信雄には領地の安堵なども認めるほどです。

織田信孝(神戸信孝像)/wikipediaより引用

家康からは、人質として次男の結城秀康をとり、その後、家康サイドについた勢力については、紀州攻め、越中攻め、四国攻め、小田原征伐で討伐することになります。

面目丸つぶれの家康は、さぞかし苦虫を潰すような顔になったことでしょう。

織田信雄の勝手な講和により、中途半端なカタチで戦が終わり、そして徳川家も豊臣政権の中に取り込まれることになってしまいます。

最終的には、江戸幕府を開いた家康の勝ちですが、秀吉存命の頃は叶わなかった。

秀吉は中央(東海・関西・甲信越)エリアをほぼ掌握し、天下人への道を邁進していく――そんな契機となったのが小牧・長久手の戦いです。

なお、秀吉・家康・信雄3人の生涯については、以下の関連記事からご参照ください。

👨‍👦 『豊臣兄弟』総合ガイド|登場人物・史実・出来事を網羅

📚 戦国時代|武将・合戦・FAQをまとめた総合ガイド


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【参考】
峰岸純夫/片桐昭彦『戦国武将合戦事典(吉川弘文館)』(→amazon
歴史群像編集部『戦国時代人物事典(学習研究社)』(→amazon
滝沢弘康『秀吉家臣団の内幕 天下人をめぐる群像劇 (SB新書)』(→amazon
国史大辞典

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武将ジャパン編集長・管理人。 1998年に大学卒業後、都内出版社に入社し、書籍・雑誌編集者として20年以上活動。歴史関連書籍からビジネス書まで幅広いジャンルの編集経験を持つ。 2013年、新聞記者の友人とともに歴史系ウェブメディア「武将ジャパン」を立ち上げ、以来、累計4,000本以上の全記事の編集・監修を担当。月間最高960万PVを記録するなど、日本史メディアとして長期的な実績を築いてきた。 戦国・中世・古代・幕末をはじめ、幅広い歴史分野をカバーしつつ、Google Discover 最適化、クラスタ構造にもとづく内部リンク戦略、画像最適化、SEO設計に精通。現在は企業のオウンドメディア運用およびコンテンツ制作コンサルティングも手がけ、歴史 × Web編集 × SEO の三領域を横断する専門家として活動している。 ◆2019年10月15日放送のTBS『クイズ!オンリー1 戦国武将』に出演(※優勝はれきしクン) ◆国立国会図書館データ https://id.ndl.go.jp/auth/ndlna/001159873

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