鎌倉幕府で執権職を独占したあの北条氏とは全く関係なく(第二代・北条義時は大河『鎌倉殿の13人』主役)。
北条義時が頼朝を支え鎌倉幕府を立ち上げ 殺伐とした世で生き残った生涯62年
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伊豆~相模で北条早雲が興した一族であり、そもそも早雲も元は室町幕府のエリート武士で、名前は伊勢宗瑞(いせそうずい)。
早雲の次代以降は
北条氏綱(2代)
↓
北条氏康(3代)
↓
北条氏政(4代)
↓
北条氏直(5代)
と計5代に渡り、東国の支配者として勇名を馳せてきた。
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氏康の代には上杉謙信や武田信玄、今川義元たちと真っ向から五分に渡り合ったことでも知られる。
その北条氏のシンボルと言えば?
やはり小田原城であろう。
【惣構え】と呼ばれる防御壁で街全体を囲み、その大きさは日本最大規模と目され、あの武田信玄も上杉謙信も、小田原を前にしては撤退を余儀なくされている。
小田原さえあれば誰にも負けない――。
かくして後北条氏に確固たる自信を持たせ、そしてそのせいで滅亡への道を突き進んでしまった。
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総仕上げ
◆九州を制圧し、ほぼ天下人に昇り詰めていた秀吉にとって、目の上のたんこぶとも言える存在が東国。
現代でも絶対的人気を誇る奥州の伊達政宗や、その親類・最上義光(政宗母ちゃんの兄)など、東北にも諸勢力はおりましたが、やはり関東最大の北条氏は圧倒的でした。
小田原を根城に秀吉を舐め続けた北条氏政・氏直親子は、ついに合戦を迎えることとなります。
キッカケは、真田昌幸支配下の名胡桃城(沼田城の支城・群馬県)へ、北条方が突如として攻め込んだことでした。
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小田原評定
◆一説によると小田原征伐で秀吉が用意した軍勢は20万超。
東海道からは豊臣本隊や徳川勢が進み、東山道からは北陸~越後勢の前田・上杉軍が参戦し、さらには九鬼水軍などに海上封鎖も進めさせ、圧倒的勢力で圧をかけていきます。
これに対し、北条一族は会議ばっかり開いて何もせず、ウダウダと滅亡への道を進んでいった――と後世ではバカにされておりますが、実際には伊豆箱根方面で城を固めるなど一応の防備は整えておりました。
しかし、後詰(救済)なき籠城は自殺行為に等しく、このときの後北条氏はまさしく袋のネズミ状態へと落ちこんでいくのでありました……。
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