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【氏康が足利上杉ぶっ倒す】
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河越夜戦

◆それは天文15年(1546年)4月20日のことでした。
氏康は、自軍に松明を持たせず、同士討ちを避けるために合言葉を定め、身軽な格好にした上で敵軍への突撃を決めました。
8千の兵を4つの部隊に分け、うち1つの部隊を遊軍とすると、残りの全軍で敵陣へ向かったのです。
首は取らず、とにかく敵を切り捨てることだけに集中する凄まじい覚悟。
大軍で勝利を疑わず、緩みきっていた上杉・足利らの連合軍に、突如、恐怖が襲いかかります。
継承者

◆氏康の突撃に呼応して、北条綱成軍も城から打って出て、上杉・足利連合軍はボロボロに敗れました。
夜間の急襲に慌てふためき、武具も取らず裸で逃げ去る者や、恐怖と混乱から同士討ちも多発。
最終的に約3千の将兵が討ち死にしたと伝わります。
この河越夜戦については史料的な裏付けが怪しいという指摘もありますが、いずれにせよ関東覇王にのし上がった北条氏康の獅子っぷりに間違いはないところ。
その関東へ、程なくして上杉謙信という軍神がやってくるのですから、いやはやこの頃の関東甲信越は凄まじとしか言いようがありません。
【参考】
『戦国合戦大事典 栃木県 群馬県 埼玉県 千葉県 東京都 神奈川県 山梨県』(→amazon)
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漫画:アニィ高橋
文:五十嵐利休
【参考】
柴辻俊六/平山優/黒田基樹/丸島和洋/柴裕之/鈴木将典『武田氏家臣団人名辞典』(→amazon)
武田氏研究会『武田氏年表 (信虎・信玄・勝頼)』(→amazon)
平山優/株式会社サンニチ印刷『信虎・信玄・勝頼 武田三代』(→amazon)
ほか






