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【映画『首』レビュー】
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武士から道義的教訓など得られねんだよ
武士を描いた作品から何らかの教訓を見出す――そんな作品へのアンチテーゼが『首』でしょう。
ならば死への忌避を思い切って捨て去っても、それはそれでありだといえます。
逆に、本作を見て、何らかの教訓を見出せるとしたら、それは妙なこと。
武士だのなんだの言って、あんな殺し合いばっかりしていた連中から何を見出そうってんだよ? そんなことしている連中は嘘つきか、ダメなんじゃねえのか?
そう毒付きながら、哄笑する声が聞こえてきそうな作品です。
この作品は万人受けするものではないかもしれない。
こんな毒々しい映画を見て、皆が「見てよかったねえ!」と微笑み合うような社会であれば、それはそれでおかしい。
勇気をもらうとか。先祖を誇らしく思うとか。そんな感想が出てくるとも思えない。
加瀬亮さんが信長の扮装をして、にこやかに手を振ったら異常なことであり、そういうのは大河ドラマの役目とも言える。
北野武監督作品に、史実的な正しさだの、思想だの、そんなものを求めてどうするのか?
それは別の作品の役目でしょう……と考えていて、どうしても根源的な話に行き着いてしまいます。
面白けりゃいい。スカしてどうすんだ。という作品は、何も北野武監督だけのことではなかったのでは?
歴史的に日本人はチャンバラ劇が大好きと言えるでしょう
江戸幕府が禁止にしようが、信長や秀吉は物語の定番題材であり続けた。
例えば、映画にも登場する「刀に突き刺した饅頭を食べさせられる荒木村重」は、武者絵の定番題材でもありました。
こういう話を喜び、浮世絵を買う人々は
「よし、歴史を学んで教養を身につけよう!」
なんてことなど、さして、いや、1ミリも考えちゃいない人が多かったことでしょう。
面白ければ、それでいい――明治以降も、チャンバラ劇が娯楽の定番だったから、常に人々から支持されてきた。
それは本作の冒頭からわかりました。
泥臭くて生々しい武士の殺し合いを見るだけで、ワクワクしてしまうのです。
武者絵なんて所詮は蕎麦一杯の値段であり、庶民が楽しむための娯楽。
教養を高めるとか。武士道を学ぶとか。そういうことは藩校に通うお武家さんがやればいい。庶民はおもしれぇから楽しむ。そんな原始的な欲求というものでしょう。
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こうした流れは長らく続いてきたものであり、講談、歌舞伎、ラジオ、映画、テレビと、チャンバラ劇は各メディアで取り上げられてきました。
それがどういうわけか、昨今は存在自体が風前の灯。
年寄りの娯楽だのなんだの言われ、制作には金がかかるせいなか、作品数は激減。
その結果「時代劇は知恵や教養を磨く」とか「日本人は古来より素晴らしいと感動させる」とか、わけのわからない「意味合い」を求めるようになっていったと感じます。
本作はそういう無難でつまらない作品とは真逆です。
やたらと生首が飛んで、侍や忍者が斬り殺しあって、それがわーっ!と楽しい。突き抜けている。
いわばジャンクフードじみた時代劇がこの作品です。
この手の作品は、史実云々はさておき話を盛り込んでゆく一方、要らんもんは切り捨ててきた。
そういう伝統の先にこの作品があります。
本来、そういうゲテモノは無条件には褒められません。
この作品はなまじ「カンヌでも熱狂!」なんて売り出すためのフレーズがあるから、見る側としては『褒めなければならない』と忖度してしまうのかもしれない。
違うでしょう。嫌われても仕方ない。万人受けするものでは断じてない。
そして、だからこそできることもある。
真面目にふざけている時代劇
本作については「バカだなぁ」と大笑いしたくなるような、だからこそ好きだと言いたくなるような、そんな要素があります。
ここまでふざけて娯楽に振り切ったならば、史実なんて飾りだと割り切ってもいい。
けれどもこの作り手は歴史が好きで愛着があるから、調べた上で、あえてアホな展開にしていると思えるのです。
考証も素晴らしい。殺陣の見せ方も実に素晴らしく、感激で胸がいっぱいになりました。
日本にはなんと素晴らしい役者がいるのか! と、ただただ感動しました。演じるというよりも、役を生きてそこにいました。
「歴史を学んだね、えらいね、ためになるね」
そう言われたいなら、わけわからん忍者なんて別にいらないでしょう。そのせいでどれだけ「ああ、しょうもねえことしやがって」と鼻で笑われてしまうか。
愛読書を「司馬遼太郎です」と答えれば褒められるのに「山田風太郎最高です」と返せば苦笑されてしまう。そんな反応もまるごと全部受け止める、いわば“開き直り”も本作の良さです。
私もしばしば誤解をされます。歴史オタクは史実から少しでもはみ出しただけで怒り出す、と。
私の大好きな映画は徳川家光が生首になる『柳生一族の陰謀』だったりします。
面白ければ史実は二の次――それでいいじゃないですか。
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ただし断っておきます。この作品は予習ありきと言えるかもしれません。
黒田官兵衛がどうして足が悪いのか?なんて……知らないとピンと来ないところがある。
北野武監督は「外国人のことを考えてハードルを下げることはしない」と言い切っています。
面白くて引き込む力があればそれでいい。時代劇とは、元々そんなものでしょう。海外のレビューを見ていたら、こんなことが書いてありました。
「日本史はわからない。本能寺の事件のことなんて全く知らなかったけど、この映画は楽しめた」
と、それでいいのではないでしょうか。
教科書の再現じゃないんだから、物語は引き込む力が一番大事。
この映画にはそれがあります。
首がテーマであるだけに、斬首や切断面まで鮮明に見せてきて、万人受けするわけないのです。
男色が歴史を動かすーーこれは実際そうなのか?
残虐さ以上に過激と見なされそうなのが男色描写です。
もう一度比較のために『麒麟がくる』を持ち出しますと、あの作品では深い親愛で結ばれていたはずの信長と光秀が決裂し、本能寺へ向かうという展開でした。
『どうする家康』でも、信長と家康が互いを思い合う展開がありました。
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私はそれをふざけて「ブロマンス本能寺」と内心呼んでいたのですが、『首』も「ブロマンス本能寺」と言えるかもしれません。
そうはいっても、『麒麟がくる』の二人はあくまでプラトニックな関係であり、精神的な繋がりです。
本作はそうではない。
肉体的には信長と光秀だけでなく、多くの人物が結ばれているものの、精神は全く繋がっていません。体を重ねたから離れ難くなるのか?というと、そんなロマンチックなものでもない。
相手の恋愛感情すら戦利品扱いで、不要になってしまえばアッサリ捨てる。
乱世を殺伐と戦う上で、支配欲として発露される男色が描かれています。
萌えるはずもない。色っぽいだのなんだの、そんな要素はない。殺伐としていて、性暴力とは魂を支配するための手段だと示す容赦のなさがあるのです。
支配のために性的な力を使うこと――。
それは男女だけではなく、同性間でもあるという事実をこの映画は突きつけてきます。
決して非現実的ではないことを、2023年の私たちはジャニーズのニュース報道を見て知っているのです。
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