北野武監督映画『首』(→amazon)

歴史ドラマ映画レビュー

北野武監督の映画『首』は本当に面白いのか?見どころは?忖度なしの徹底レビュー

2024/11/30

2023年は異常な年でした。

1月にキムタク主演の映画『レジェンド&バタフライ』が公開。

そして11月23日からは北野武監督による映画『首』が始まり、1年に2度も【本能寺の変】を主題とした作品が封切りされたのです。

といっても、皆さんが気になるのは極めて単純なことでしょう。

北野武監督の歴史作品は面白いのか、面白くないのか。

2024年11月現在、Amazonプライムビデオ(→amazon)などの動画配信サービスも始まっています。

ただ……映画『レジェンド&バタフライ』があまりにも陳腐な駄作だったため、もしかして北野作品もツマランの?と思うと、VODとはいえうっかり手を出しにくい。

そう警戒されている歴史ファンのため、さっそくレビューをお送りします!

基本DATAinfo
タイトル『首』
原題
制作年2023年
制作国日本
舞台日本
時代安土桃山時代
主な出演者ビートたけし、西島秀俊、加瀬亮、遠藤賢一ほか
史実再現度歴史的事件はほぼ史実に沿っているが、動機の解釈はかなり自由である
特徴最高の食材と腕前で作り上げたジャンクフード

 


あらすじ

第六天魔王こと織田信長のもとには、野心あふれる武将たちが付き従っている。

そんな家臣たちに向かって、信長はこう宣言する。

息子はうつけで頼りない。

この中で抜群の手柄を立てた者に跡目を譲ってやる。

餓狼の群れに投げ込まれた一切れの肉――信長配下の武将たちによる、策謀をめぐらせ、互いを追い落とさんとする日々が始まった。

争いの背後には、野心だけではない感情もあった。

相手を貪り合うように求める男色だ。

誰が誰を慕っているのか? その欲望を確かめながら、彼らは戦ってきた。

そして、早速、脱落者が出る。荒木村重が謀反を起こしたのだ。

愛しい相手であればこそ、手を噛まれたら憎い。

信長のもとに村重の“首”を真っ先に届けるのは誰なのか?

それともいっそ信長の“首”をとってしまうべきか?

獣たちの野心と慕情の向こうに、炎上する本能寺が見えてくる。

 


好きなものを詰め込んだような散漫さ

この映画に関しては好条件が揃っています。

北野武監督作品であり、豪華出演者が揃い、日本史上最も人気のあるイベント【本能寺の変】が描かれる。

『真書太閤記 本能寺焼討之図』(渡辺延一作)/wikipediaより引用

おまけにカンヌ映画祭でも華々しく登場だ。

となれば、どういう評価がつくのか予想はできます。

いかに芸術的な深読みができるか。日本史観点からみてどこがどう斬新であるか。我々に突きつけられた問いは何か。

そういうものは、得意な誰かに任せます。

私の任ではありません……というか、この映画はむしろ、そういった高尚で、いかにも教養が得られそうな作品とは真逆に思えるのです。

真面目に歴史を考察するにしては、おどろおどろしい忍者が活躍しすぎる。

甲賀の里にいる只者ではないという忍者は、それこそ立川文庫のような古臭い陳腐さに満ちている。

ぽんぽんと首が安売りされるように転がる様。

なかなか死なない家康と、出てきたと思ったら即座に死ぬその影武者。

清水宗治の切腹がすっとろい!と罵倒する秀吉。

なだめにかかる黒田官兵衛。

こうした軽薄な描写から、深い教養を読みとけるものなのか?

否、そういうものではないでしょう。

答えは一つ。

面白ければいい――そこはもう理屈ではありません。

忍者が手裏剣を投げる。ワイヤーアクションで空を飛ぶ。見ていて楽しけりゃそれでいい。

それで十分ではありませんか。

 

暴力忌避というネジが抜けている

この作品が散漫としているのは、他にも理由があります。

好きなものだけ詰め込んだ一方で、意図的に排除しているといえるものがあります。

死や暴力への忌避です。

明智光秀のような理知的に見える人物ですら、それがありません。

明智光秀/wikipediaより引用

彼が苛立つのは、殺すことをただのこなすべき任務であり、それに対する見返りが少ないこと。いわば労働条件と折り合いがつかないことへの不満です。

明智勢による虐殺描写もあるうえに、ストレス発散のために平然と人を殺します。

中世の武士には「一日一回は生首見ないとシャキッとしないな」とぼやいていた者すらいるそうです。

しかし、それがいざ映像にされるとなかなか辛いものがあります。

明智以外の他の連中も言うまでもない。

武士ではないと強調される秀吉が、庶民視点で民を愛するのか?というと、そんなことは全くなく、むしろ清水宗治の切腹に苛立つ場面からは、死ぬならとっととやっちまえという粗雑さが際立っています。

武士道をふりかざして死を彩ろうとする努力すら、彼にとっては何の価値もありません。

では聖職者はどうか?

安国寺恵瓊にせよ、宣教師にせよ、利益重視で人命なぞ埒外。

日本人だけが野蛮なのか?と思ったらそうではなく、スペイン語を話すある人物は、この映画のキーアイテムである“首”をゴミのように扱います。

例外ともいえる人物はいます。

難波茂助です。彼は手にかけた人物の亡霊に苦しめられるという、素朴な死への忌避感があります。

そうはいっても、彼は自分が殺した特定の人物だけを恐れるのであって、死や殺人への忌避はない。まるで子どものような笑顔で首と戯れています。

狂っているからそういうものなのか? というと、これがそうではない。

この前提の時点で、この作品は大嘘をついています。

中世の日本人にだって、死の穢れや祟りへの恐怖心はあった。遺骸はできる範囲で丁寧に扱いました。聖職者だってそれがビジネスだから、一応は取り繕います。

思想もある。この映画と比較するべき大河ドラマは2023年『どうする家康』ではなく、2020年『麒麟がくる』です。

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あの作品の明智光秀は、朱子学を乱世を収束させるべき思想として常に掲げていました。

 


武士から道義的教訓など得られねんだよ

武士を描いた作品から何らかの教訓を見出す――そんな作品へのアンチテーゼが『首』でしょう。

ならば死への忌避を思い切って捨て去っても、それはそれでありだといえます。

逆に、本作を見て、何らかの教訓を見出せるとしたら、それは妙なこと。

武士だのなんだの言って、あんな殺し合いばっかりしていた連中から何を見出そうってんだよ? そんなことしている連中は嘘つきか、ダメなんじゃねえのか?

そう毒付きながら、哄笑する声が聞こえてきそうな作品です。

この作品は万人受けするものではないかもしれない。

こんな毒々しい映画を見て、皆が「見てよかったねえ!」と微笑み合うような社会であれば、それはそれでおかしい。

勇気をもらうとか。先祖を誇らしく思うとか。そんな感想が出てくるとも思えない。

加瀬亮さんが信長の扮装をして、にこやかに手を振ったら異常なことであり、そういうのは大河ドラマの役目とも言える。

北野武監督作品に、史実的な正しさだの、思想だの、そんなものを求めてどうするのか?

それは別の作品の役目でしょう……と考えていて、どうしても根源的な話に行き着いてしまいます。

面白けりゃいい。スカしてどうすんだ。という作品は、何も北野武監督だけのことではなかったのでは?

歴史的に日本人はチャンバラ劇が大好きと言えるでしょう

江戸幕府が禁止にしようが、信長や秀吉は物語の定番題材であり続けた。

例えば、映画にも登場する「刀に突き刺した饅頭を食べさせられる荒木村重」は、武者絵の定番題材でもありました。

「太平記英勇伝三十八:荒木摂津守村重」(落合芳幾作)

『太平記英勇伝三十八:荒木摂津守村重』(落合芳幾作)/wikipediaより引用

こういう話を喜び、浮世絵を買う人々は

「よし、歴史を学んで教養を身につけよう!」

なんてことなど、さして、いや、1ミリも考えちゃいない人が多かったことでしょう。

面白ければ、それでいい――明治以降も、チャンバラ劇が娯楽の定番だったから、常に人々から支持されてきた。

それは本作の冒頭からわかりました。

泥臭くて生々しい武士の殺し合いを見るだけで、ワクワクしてしまうのです。

武者絵なんて所詮は蕎麦一杯の値段であり、庶民が楽しむための娯楽。

教養を高めるとか。武士道を学ぶとか。そういうことは藩校に通うお武家さんがやればいい。庶民はおもしれぇから楽しむ。そんな原始的な欲求というものでしょう。

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こうした流れは長らく続いてきたものであり、講談、歌舞伎、ラジオ、映画、テレビと、チャンバラ劇は各メディアで取り上げられてきました。

それがどういうわけか、昨今は存在自体が風前の灯。

年寄りの娯楽だのなんだの言われ、制作には金がかかるせいなか、作品数は激減。

その結果「時代劇は知恵や教養を磨く」とか「日本人は古来より素晴らしいと感動させる」とか、わけのわからない「意味合い」を求めるようになっていったと感じます。

本作はそういう無難でつまらない作品とは真逆です。

やたらと生首が飛んで、侍や忍者が斬り殺しあって、それがわーっ!と楽しい。突き抜けている。

いわばジャンクフードじみた時代劇がこの作品です。

この手の作品は、史実云々はさておき話を盛り込んでゆく一方、要らんもんは切り捨ててきた。

そういう伝統の先にこの作品があります。

本来、そういうゲテモノは無条件には褒められません。

この作品はなまじ「カンヌでも熱狂!」なんて売り出すためのフレーズがあるから、見る側としては『褒めなければならない』と忖度してしまうのかもしれない。

違うでしょう。嫌われても仕方ない。万人受けするものでは断じてない。

そして、だからこそできることもある。

 

真面目にふざけている時代劇

本作については「バカだなぁ」と大笑いしたくなるような、だからこそ好きだと言いたくなるような、そんな要素があります。

ここまでふざけて娯楽に振り切ったならば、史実なんて飾りだと割り切ってもいい。

けれどもこの作り手は歴史が好きで愛着があるから、調べた上で、あえてアホな展開にしていると思えるのです。

考証も素晴らしい。殺陣の見せ方も実に素晴らしく、感激で胸がいっぱいになりました。

日本にはなんと素晴らしい役者がいるのか! と、ただただ感動しました。演じるというよりも、役を生きてそこにいました。

「歴史を学んだね、えらいね、ためになるね」

そう言われたいなら、わけわからん忍者なんて別にいらないでしょう。そのせいでどれだけ「ああ、しょうもねえことしやがって」と鼻で笑われてしまうか。

愛読書を「司馬遼太郎です」と答えれば褒められるのに「山田風太郎最高です」と返せば苦笑されてしまう。そんな反応もまるごと全部受け止める、いわば“開き直り”も本作の良さです。

私もしばしば誤解をされます。歴史オタクは史実から少しでもはみ出しただけで怒り出す、と。

私の大好きな映画は徳川家光が生首になる『柳生一族の陰謀』だったりします。

面白ければ史実は二の次――それでいいじゃないですか。

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ただし断っておきます。この作品は予習ありきと言えるかもしれません。

黒田官兵衛がどうして足が悪いのか?なんて……知らないとピンと来ないところがある。

北野武監督は「外国人のことを考えてハードルを下げることはしない」と言い切っています。

面白くて引き込む力があればそれでいい。時代劇とは、元々そんなものでしょう。海外のレビューを見ていたら、こんなことが書いてありました。

「日本史はわからない。本能寺の事件のことなんて全く知らなかったけど、この映画は楽しめた」

と、それでいいのではないでしょうか。

教科書の再現じゃないんだから、物語は引き込む力が一番大事。

この映画にはそれがあります。

首がテーマであるだけに、斬首や切断面まで鮮明に見せてきて、万人受けするわけないのです。

 

男色が歴史を動かすーーこれは実際そうなのか?

残虐さ以上に過激と見なされそうなのが男色描写です。

もう一度比較のために『麒麟がくる』を持ち出しますと、あの作品では深い親愛で結ばれていたはずの信長と光秀が決裂し、本能寺へ向かうという展開でした。

『どうする家康』でも、信長と家康が互いを思い合う展開がありました。

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私はそれをふざけて「ブロマンス本能寺」と内心呼んでいたのですが、『首』も「ブロマンス本能寺」と言えるかもしれません。

そうはいっても、『麒麟がくる』の二人はあくまでプラトニックな関係であり、精神的な繋がりです。

本作はそうではない。

肉体的には信長と光秀だけでなく、多くの人物が結ばれているものの、精神は全く繋がっていません。体を重ねたから離れ難くなるのか?というと、そんなロマンチックなものでもない。

相手の恋愛感情すら戦利品扱いで、不要になってしまえばアッサリ捨てる。

乱世を殺伐と戦う上で、支配欲として発露される男色が描かれています。

萌えるはずもない。色っぽいだのなんだの、そんな要素はない。殺伐としていて、性暴力とは魂を支配するための手段だと示す容赦のなさがあるのです。

支配のために性的な力を使うこと――。

それは男女だけではなく、同性間でもあるという事実をこの映画は突きつけてきます。

決して非現実的ではないことを、2023年の私たちはジャニーズのニュース報道を見て知っているのです。

 

天命のもとで、作品は世を映し出す鏡となる

作品を考えていく上で、それが発表された時点での時代背景や経緯を無視することはできません。

人気のある作品として定番中の定番であった『忠臣蔵』ですら、最近は理解されなくなったと言われます。

あんな逆恨みで老人をよってたかって殺す話のどこが感動的なのか?と指摘されたら、確かにそう。

読みとくには、徳川綱吉時代に漂っていた閉塞感と、物語に救いを見出そうとした民衆の心理まで踏まえねばなりません。

エンタメに政治を持ち込むな。深読みするな。そんなことも言われたりしますが、それは無責任な態度であり、実ははなから無理なことです。

特別な作品とは、時代の空気と噛み合い、写し鏡として機能してしまいます。

『首』について後世振り返られるとすれば、結びつけられる事件は容易にあげられます。

ジャニーズ事務所。

歌舞伎。

宝塚歌劇団

2023年、日本の芸能界には暗雲が立ち込めていました。

しかもそれは、いきなり発生したものではなく、これまで見て見ぬふりをしてきた結果、限界に達してしまった。ただ、それだけのことです。

そしてそんな現状を、この作品がまざまざと読み解けるように作用しているのは、ただの偶然でしょう。

いや、もっとロマンチックな言い回しがある。

「これは天命だと思うか?」

本作の明智光秀の言葉を借りるならばこうなる。

支配欲として描かれる男色描写を見て、私は憤りを覚えました。

なぜ、もっと頻繁に、こういう描写が登場してこなかったのか?

日本史上、男色は確かにあったのに、それを過剰にタブー視して、隠す。いわばホモフォビアは当然のマナーのように横行していました。

結果、ジャニーズの隠蔽にも繋がっている。

男が男に欲情するなんてありえない。嘘つきだ。俺はそんなことねえよ。よほど特殊なヤツの趣味だろ。そう否定されるか。

あるいはニタニタと笑いものにされて終わるか。ネタにされるか。

性暴力とは性欲ゆえのものではなく、支配欲であるとまで描いた本作。

実は性暴力に対して真摯な問題提起をしていると思えました。

 

この露悪趣味と問題提起は、見るものを飲み込んでゆく

そして弥助。

黒人の侍として注目を集め、様々な作品にも登場するようになった、昨今話題の人物です。

しかし本作では「多様性の象徴として扱う欺瞞」を突きつけてきます。

信長にとって、弥助は一風変わった“持ち物”でしかない。

彼の肌の色を用いた遊びをするし、敬愛があるわけでもない。他の者と同じく歪な支配の下において平然としている。

役立つ限りはそばに置くけれども、相手を尊重しようなんてつもりはさらさらない。

これは今の日本社会にもあることではないのか?

肌の色の異なるルーツの人が、スポーツで活躍すればチヤホヤする。その一方でその人が目障りとなれば、人種差別しながらいじめ始める。

日本人は人種差別をしないという論の補強として使われることもある、信長と弥助の関係。

それをこうも徹底的に破壊し尽くし、差別の醜さまでこの作品は突きつけてきます。

そしてその結果、相手がどう思うか?という答えで見る側の頬を張り飛ばしてきます。

信長と国際関係といえば、宣教師との関係性もただただ、虚しい。

スペイン人宣教師は布教という利益に釣られてヘラヘラしているだけだし、信長だって別に相手の信仰を尊重するつもりなんてさらさらない。

クリスマスツリーは飾るけど、宗教上の理由で食の禁忌がある相手を馬鹿にして嘲笑う態度のようだ。

そういう人間性の嫌なところを、このドラマはどんどんどんどん、悪い方に煮詰めて、こちらを蹴り飛ばしてきます。

笑いながら信長は叫び、光秀を蹴り飛ばす。映画の中から飛び出して、あの信長は私まで蹴り飛ばしてきそうだ。お前だけは違うって? この嘘つきめ!

「皆殺しに決まっとるだろうがよぉ!」

この映画からは誰も逃げられない。

己の偽善や悪徳と向き合う鏡を突きつけられたようで、思い出すと気分が悪くなってくる。

この映画に出てくる連中は、誰も共感したくないようで、既視感があるから困惑させられる。

いるぞ、こういう嫌なヤツはいる。

ニタニタしながら軽い調子で人を傷つけ、それを楽しむヤツはいる。

うちは関係あらしまへん。そう済ました顔をしながら、裏で悪事に関わるヤツもいる。

嫌なリアリティが随所にあり、思い出すと気分が落ち込んでくる。

この映画の連中と自分は程遠いと思いたいけれども、そうだと言えないのです。

 

日本人とは何か? 刃が喉に突きつけられる

映画が終わり、エンドロールが流れて席を立ち、なんて面白いのかと喜びながらこんなことを考えた。

月に一度、こんな映画を見たいな……。

それは無理でも、年に一度はお願いできたら……。

そう思いながら帰宅し、レビューをどう書こうか考えているうちに、毒が回ったような気持ちがじわじわと湧いてきました。

あれを褒めていいのだろうか?

思い切りぶん殴ってくるような作品だったのに、それはあまりに能天気ではなかろうか?

でもだからこそ、あれは得難い一作であり、素晴らしいのではないか?

何かといえば「日本スゴイ」ばかりがテレビに流れる今日この頃。

四季があるだの、スポーツイベントのあとゴミ拾いをするだの言われて、いや、だから何なのよ……と、そんなモヤモヤした気持ちを、あの高笑いする信長が蹴り飛ばし、光秀が銃撃し、秀吉が笑い飛ばしたのではなかったか?

この露悪的な一本は、ただの娯楽ではなく、もっと深い何かを突きつけてくるかもしれない。

物語の持つ力とは、そういうものかもしれない。

この映画がカンヌで流れ、記者たちに北野武監督が日本の芸能界の権力構造を語ったとき、何かが生まれていたのでは?

観客席にいた誰かが、こう納得してしまったとすればどうだろう?

そうか、日本人の権力闘争とはこういうものか。

欲と利害で結びつき、わがままで、勝手で、裏切りに満ちているのか。

今もきっと変わらないのかな?

――こう考えた時、私はゾッとしてしまいました。

そういう可能性があるからこそ、これはもはやただの映画ではありません。

時代に突きつけられる刃と化してしまう。それはもう作品の出来を通り越した、天命を宿したものとなってしまうのでは?

そんな思いが渦巻く脳内を、信長の笑いが流れていて、地獄のような思いに突き落とされています。

これが好きかと言われたら、すぐに「好きだ!」と即答する。

じゃあもう一度見たいかと言われれば、それは嫌かもしれない。

みんな好きになれるかと言われたら、「そんなことがあってたまるか!」と、これまた即座に返す。

むしろ誰かに「この映画が大好きだ」と言われれば、一体どこが好きなのか? 本当なのか? と問い詰めたくなるかもしれない。

ものすごく好きだけど、全肯定することもできない。

これぞ映画『首』の真骨頂ではないでしょうか。

私はいったい何を見せられたのか?

そう思い出すたびに、この映画はくるくると姿を変えて高笑いをしているかのような、満足感と虚無感が同時に襲ってくる。

武士のことを知って、ワクワクしながら楽しむようになったこと。そんな昔をふと思い出します。

合戦でワーッとテンションが上がって、なんでこんなに元気が湧くのかとワクワクした。

けれども、何かの弾みでドス黒い深淵を覗いてしまう。

辞世を読んだとき。

死にゆく様を描いたものを見たとき。

武士だのなんだの呑気にはしゃいでいたけど、こいつらは日夜殺し合いをしている恐ろしい連中だった。

そう改めて気づいて、泣きたいのか笑いたいのか、わからないまま心が無茶苦茶になりました。

2023年秋にこの映画がスクリーンで流れ、それを見てしまった意味。

それはもっと後になってから理解できるのかもしれません。

そのときを待ちたいのか、それともこの映画を忘れたいのか? 私にはまだわかりません。

ただ、特別だったとは言える。それは確かなことです。

こんな騙し合い、殺し合うさまを楽しんで、一体自分はなんなんだ?

もっと明るくて愉快なものは世の中いくらでもあるのに、どうして武士が殺し合って、死んでゆく物語をまた楽しんでいるんだろう?

本当に馬鹿げている。何もかもおかしい、なんなんだ!

そういう根源的な何かをこの映画は思い出させてくれました。

ほんとうに得難い。

この血生臭さが口の中に広がる気持ちを思い出させてくれる何かがまだあった。そのことそのものが嬉しいようで、おぞましいような……そんな凄まじい作品です。


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【参考・TOP画像】
映画『首』公式サイト(→link

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武者震之助

2015年の大河ドラマ『花燃ゆ』以来、毎年レビューを担当。大河ドラマにとっての魏徴(ぎちょう)たらんと自認しているが、そう思うのは本人だけである。

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