1月にキムタク主演の映画『レジェンド&バタフライ』が公開。
そして11月23日からは北野武監督による映画『首』が始まり、1年に2度も【本能寺の変】を主題とした作品が封切りされたのです。
といっても、皆さんが気になるのは極めて単純なことでしょう。
北野武監督の歴史作品は面白いのか、面白くないのか。
2024年11月現在、Amazonプライムビデオ(→amazon)などの動画配信サービスも始まっています。
ただ……映画『レジェンド&バタフライ』があまりにも陳腐な駄作だったため、もしかして北野作品もツマランの?と思うと、VODとはいえうっかり手を出しにくい。
そう警戒されている歴史ファンのため、さっそくレビューをお送りします!
基本DATA | info |
---|---|
タイトル | 『首』 |
原題 | 首 |
制作年 | 2023年 |
制作国 | 日本 |
舞台 | 日本 |
時代 | 安土桃山時代 |
主な出演者 | ビートたけし、西島秀俊、加瀬亮、遠藤賢一ほか |
史実再現度 | 歴史的事件はほぼ史実に沿っているが、動機の解釈はかなり自由である |
特徴 | 最高の食材と腕前で作り上げたジャンクフード |
※以下は映画『レジェンド&バタフライ』のレビューです
ド派手な話題作りで中身は空っぽ?映画『レジェンド&バタフライ』
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お好きな項目に飛べる目次
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あらすじ
第六天魔王こと織田信長のもとには、野心あふれる武将たちが付き従っている。
そんな家臣たちに向かって、信長はこう宣言する。
息子はうつけで頼りない。
この中で抜群の手柄を立てた者に跡目を譲ってやる。
餓狼の群れに投げ込まれた一切れの肉――信長配下の武将たちによる、策謀をめぐらせ、互いを追い落とさんとする日々が始まった。
争いの背後には、野心だけではない感情もあった。
相手を貪り合うように求める男色だ。
誰が誰を慕っているのか? その欲望を確かめながら、彼らは戦ってきた。
そして、早速、脱落者が出る。荒木村重が謀反を起こしたのだ。
愛しい相手であればこそ、手を噛まれたら憎い。
信長のもとに村重の“首”を真っ先に届けるのは誰なのか?
それともいっそ信長の“首”をとってしまうべきか?
獣たちの野心と慕情の向こうに、炎上する本能寺が見えてくる。
好きなものを詰め込んだような散漫さ
この映画に関しては好条件が揃っています。
北野武監督作品であり、豪華出演者が揃い、日本史上最も人気のあるイベント【本能寺の変】が描かれる。
おまけにカンヌ映画祭でも華々しく登場だ。
となれば、どういう評価がつくのか予想はできます。
いかに芸術的な深読みができるか。日本史観点からみてどこがどう斬新であるか。我々に突きつけられた問いは何か。
そういうものは、得意な誰かに任せます。
私の任ではありません……というか、この映画はむしろ、そういった高尚で、いかにも教養が得られそうな作品とは真逆に思えるのです。
真面目に歴史を考察するにしては、おどろおどろしい忍者が活躍しすぎる。
甲賀の里にいる只者ではないという忍者は、それこそ立川文庫のような古臭い陳腐さに満ちている。
ぽんぽんと首が安売りされるように転がる様。
なかなか死なない家康と、出てきたと思ったら即座に死ぬその影武者。
なだめにかかる黒田官兵衛。
こうした軽薄な描写から、深い教養を読みとけるものなのか?
否、そういうものではないでしょう。
答えは一つ。
面白ければいい――そこはもう理屈ではありません。
忍者が手裏剣を投げる。ワイヤーアクションで空を飛ぶ。見ていて楽しけりゃそれでいい。
それで十分ではありませんか。
暴力忌避というネジが抜けている
この作品が散漫としているのは、他にも理由があります。
好きなものだけ詰め込んだ一方で、意図的に排除しているといえるものがあります。
死や暴力への忌避です。
明智光秀のような理知的に見える人物ですら、それがありません。
彼が苛立つのは、殺すことをただのこなすべき任務であり、それに対する見返りが少ないこと。いわば労働条件と折り合いがつかないことへの不満です。
明智勢による虐殺描写もあるうえに、ストレス発散のために平然と人を殺します。
中世の武士には「一日一回は生首見ないとシャキッとしないな」とぼやいていた者すらいるそうです。
しかし、それがいざ映像にされるとなかなか辛いものがあります。
明智以外の他の連中も言うまでもない。
武士ではないと強調される秀吉が、庶民視点で民を愛するのか?というと、そんなことは全くなく、むしろ清水宗治の切腹に苛立つ場面からは、死ぬならとっととやっちまえという粗雑さが際立っています。
武士道をふりかざして死を彩ろうとする努力すら、彼にとっては何の価値もありません。
では聖職者はどうか?
安国寺恵瓊にせよ、宣教師にせよ、利益重視で人命なぞ埒外。
日本人だけが野蛮なのか?と思ったらそうではなく、スペイン語を話すある人物は、この映画のキーアイテムである“首”をゴミのように扱います。
例外ともいえる人物はいます。
難波茂助です。彼は手にかけた人物の亡霊に苦しめられるという、素朴な死への忌避感があります。
そうはいっても、彼は自分が殺した特定の人物だけを恐れるのであって、死や殺人への忌避はない。まるで子どものような笑顔で首と戯れています。
狂っているからそういうものなのか? というと、これがそうではない。
この前提の時点で、この作品は大嘘をついています。
中世の日本人にだって、死の穢れや祟りへの恐怖心はあった。遺骸はできる範囲で丁寧に扱いました。聖職者だってそれがビジネスだから、一応は取り繕います。
思想もある。この映画と比較するべき大河ドラマは2023年『どうする家康』ではなく、2020年『麒麟がくる』です。
『麒麟がくる』で「来ない」と話題になった――そもそも「麒麟」とは何か問題
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あの作品の明智光秀は、朱子学を乱世を収束させるべき思想として常に掲げていました。
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