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【映画『首』レビュー】
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天命のもとで、作品は世を映し出す鏡となる
作品を考えていく上で、それが発表された時点での時代背景や経緯を無視することはできません。
人気のある作品として定番中の定番であった『忠臣蔵』ですら、最近は理解されなくなったと言われます。
あんな逆恨みで老人をよってたかって殺す話のどこが感動的なのか?と指摘されたら、確かにそう。
読みとくには、徳川綱吉時代に漂っていた閉塞感と、物語に救いを見出そうとした民衆の心理まで踏まえねばなりません。
エンタメに政治を持ち込むな。深読みするな。そんなことも言われたりしますが、それは無責任な態度であり、実ははなから無理なことです。
特別な作品とは、時代の空気と噛み合い、写し鏡として機能してしまいます。
『首』について後世振り返られるとすれば、結びつけられる事件は容易にあげられます。
ジャニーズ事務所。
歌舞伎。
宝塚歌劇団。
2023年、日本の芸能界には暗雲が立ち込めていました。
しかもそれは、いきなり発生したものではなく、これまで見て見ぬふりをしてきた結果、限界に達してしまった。ただ、それだけのことです。
そしてそんな現状を、この作品がまざまざと読み解けるように作用しているのは、ただの偶然でしょう。
いや、もっとロマンチックな言い回しがある。
「これは天命だと思うか?」
本作の明智光秀の言葉を借りるならばこうなる。
支配欲として描かれる男色描写を見て、私は憤りを覚えました。
なぜ、もっと頻繁に、こういう描写が登場してこなかったのか?
日本史上、男色は確かにあったのに、それを過剰にタブー視して、隠す。いわばホモフォビアは当然のマナーのように横行していました。
結果、ジャニーズの隠蔽にも繋がっている。
男が男に欲情するなんてありえない。嘘つきだ。俺はそんなことねえよ。よほど特殊なヤツの趣味だろ。そう否定されるか。
あるいはニタニタと笑いものにされて終わるか。ネタにされるか。
性暴力とは性欲ゆえのものではなく、支配欲であるとまで描いた本作。
実は性暴力に対して真摯な問題提起をしていると思えました。
この露悪趣味と問題提起は、見るものを飲み込んでゆく
そして弥助。
黒人の侍として注目を集め、様々な作品にも登場するようになった、昨今話題の人物です。
しかし本作では「多様性の象徴として扱う欺瞞」を突きつけてきます。
信長にとって、弥助は一風変わった“持ち物”でしかない。
彼の肌の色を用いた遊びをするし、敬愛があるわけでもない。他の者と同じく歪な支配の下において平然としている。
役立つ限りはそばに置くけれども、相手を尊重しようなんてつもりはさらさらない。
これは今の日本社会にもあることではないのか?
肌の色の異なるルーツの人が、スポーツで活躍すればチヤホヤする。その一方でその人が目障りとなれば、人種差別しながらいじめ始める。
日本人は人種差別をしないという論の補強として使われることもある、信長と弥助の関係。
それをこうも徹底的に破壊し尽くし、差別の醜さまでこの作品は突きつけてきます。
そしてその結果、相手がどう思うか?という答えで見る側の頬を張り飛ばしてきます。
信長と国際関係といえば、宣教師との関係性もただただ、虚しい。
スペイン人宣教師は布教という利益に釣られてヘラヘラしているだけだし、信長だって別に相手の信仰を尊重するつもりなんてさらさらない。
クリスマスツリーは飾るけど、宗教上の理由で食の禁忌がある相手を馬鹿にして嘲笑う態度のようだ。
そういう人間性の嫌なところを、このドラマはどんどんどんどん、悪い方に煮詰めて、こちらを蹴り飛ばしてきます。
笑いながら信長は叫び、光秀を蹴り飛ばす。映画の中から飛び出して、あの信長は私まで蹴り飛ばしてきそうだ。お前だけは違うって? この嘘つきめ!
「皆殺しに決まっとるだろうがよぉ!」
この映画からは誰も逃げられない。
己の偽善や悪徳と向き合う鏡を突きつけられたようで、思い出すと気分が悪くなってくる。
この映画に出てくる連中は、誰も共感したくないようで、既視感があるから困惑させられる。
いるぞ、こういう嫌なヤツはいる。
ニタニタしながら軽い調子で人を傷つけ、それを楽しむヤツはいる。
うちは関係あらしまへん。そう済ました顔をしながら、裏で悪事に関わるヤツもいる。
嫌なリアリティが随所にあり、思い出すと気分が落ち込んでくる。
この映画の連中と自分は程遠いと思いたいけれども、そうだと言えないのです。
日本人とは何か? 刃が喉に突きつけられる
映画が終わり、エンドロールが流れて席を立ち、なんて面白いのかと喜びながらこんなことを考えた。
月に一度、こんな映画を見たいな……。
それは無理でも、年に一度はお願いできたら……。
そう思いながら帰宅し、レビューをどう書こうか考えているうちに、毒が回ったような気持ちがじわじわと湧いてきました。
あれを褒めていいのだろうか?
思い切りぶん殴ってくるような作品だったのに、それはあまりに能天気ではなかろうか?
でもだからこそ、あれは得難い一作であり、素晴らしいのではないか?
何かといえば「日本スゴイ」ばかりがテレビに流れる今日この頃。
四季があるだの、スポーツイベントのあとゴミ拾いをするだの言われて、いや、だから何なのよ……と、そんなモヤモヤした気持ちを、あの高笑いする信長が蹴り飛ばし、光秀が銃撃し、秀吉が笑い飛ばしたのではなかったか?
この露悪的な一本は、ただの娯楽ではなく、もっと深い何かを突きつけてくるかもしれない。
物語の持つ力とは、そういうものかもしれない。
この映画がカンヌで流れ、記者たちに北野武監督が日本の芸能界の権力構造を語ったとき、何かが生まれていたのでは?
観客席にいた誰かが、こう納得してしまったとすればどうだろう?
そうか、日本人の権力闘争とはこういうものか。
欲と利害で結びつき、わがままで、勝手で、裏切りに満ちているのか。
今もきっと変わらないのかな?
――こう考えた時、私はゾッとしてしまいました。
そういう可能性があるからこそ、これはもはやただの映画ではありません。
時代に突きつけられる刃と化してしまう。それはもう作品の出来を通り越した、天命を宿したものとなってしまうのでは?
そんな思いが渦巻く脳内を、信長の笑いが流れていて、地獄のような思いに突き落とされています。
これが好きかと言われたら、すぐに「好きだ!」と即答する。
じゃあもう一度見たいかと言われれば、それは嫌かもしれない。
みんな好きになれるかと言われたら、「そんなことがあってたまるか!」と、これまた即座に返す。
むしろ誰かに「この映画が大好きだ」と言われれば、一体どこが好きなのか? 本当なのか? と問い詰めたくなるかもしれない。
ものすごく好きだけど、全肯定することもできない。
これぞ映画『首』の真骨頂ではないでしょうか。
私はいったい何を見せられたのか?
そう思い出すたびに、この映画はくるくると姿を変えて高笑いをしているかのような、満足感と虚無感が同時に襲ってくる。
武士のことを知って、ワクワクしながら楽しむようになったこと。そんな昔をふと思い出します。
合戦でワーッとテンションが上がって、なんでこんなに元気が湧くのかとワクワクした。
けれども、何かの弾みでドス黒い深淵を覗いてしまう。
辞世を読んだとき。
死にゆく様を描いたものを見たとき。
武士だのなんだの呑気にはしゃいでいたけど、こいつらは日夜殺し合いをしている恐ろしい連中だった。
そう改めて気づいて、泣きたいのか笑いたいのか、わからないまま心が無茶苦茶になりました。
2023年秋にこの映画がスクリーンで流れ、それを見てしまった意味。
それはもっと後になってから理解できるのかもしれません。
そのときを待ちたいのか、それともこの映画を忘れたいのか? 私にはまだわかりません。
ただ、特別だったとは言える。それは確かなことです。
こんな騙し合い、殺し合うさまを楽しんで、一体自分はなんなんだ?
もっと明るくて愉快なものは世の中いくらでもあるのに、どうして武士が殺し合って、死んでゆく物語をまた楽しんでいるんだろう?
本当に馬鹿げている。何もかもおかしい、なんなんだ!
そういう根源的な何かをこの映画は思い出させてくれました。
ほんとうに得難い。
この血生臭さが口の中に広がる気持ちを思い出させてくれる何かがまだあった。そのことそのものが嬉しいようで、おぞましいような……そんな凄まじい作品です。
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【参考・TOP画像】
映画『首』公式サイト(→link)